光の世界







 あれ。
 目に映る模様がぼんやりと網膜に映る。
 見慣れた白い、連続するその柄はベッドの天井に映るそれだ。
 特別変わったことはない。違うものはないのだが、違和感がある。
 ゆっくりと身体を起こして、周りを見渡す。ベッドのそばにあるチェスト、ヘッドライトの元にある写真には、いとしいひとの横顔を写した写真が収まっている。
 ぐるりと見渡すが、変わった点などひとつも見当たらない。
 しかし、違和感は拭いきれない。でも何かが違う。
 何が違うんだろう。
 はた、と胸に手をあてて、アスランは気づいた。
 どうして、ベッドで寝ていたのに寝巻きに着替えてないのだ。
 ベッドに入るときには必ず、外に来ていった服を必ず脱ぐという習慣だけは、生まれてからこの方ずっと守られてきた。
 記憶を辿ろうとして、アスランははっと我に返った。
 昨日の夜の、あれは夢だったのか。
 そうでなければ自分がここに居るわけがない。
 そうだ、夢だったんだ、と思い、しかし訝しがる気持ちを抑えられず、アスランはベッドからのそりを起き上がった。
 フローリングに足を下ろすが、地に足が着いたようには思えなかった。
 いつもの、ひやりとした冷たさが無い。目を下に向けるが、そこに足はあるし茶色い床も見える。
 立ち上がって、まずは水でも一杯飲んで落ち着こうと思って、足を踏み出したとたん、アスランの眼前に突然ひとが現れた。
「……」
 夢でも見ているのだろうか。
 この違和感は、夢の世界の中に居るせいだろうか。
 ここは、確かに自分の家のはずで、法律上名義は自分のものになっている。
 そしてそこに他人が勝手に立ち入ることは許されない。
 真黒いシャツにジャケット、パンツと黒ずくめの、銀の髪を持つ男が、無表情に立っているのを見て、アスランは驚きを隠せなかった。
 不法侵入とか、あんたは誰だ、とか、もしかしたらこの物体は幽霊かもしれない、とか。色々言いたいことはあって、口に出したはずなのに、声に生らなかった。
 はたからみれば、魚のようにぱくぱく口を開けている間抜けな面だったかもしれない。
 息をひとつ、ふたつ吸い込んでから、この奇妙な現実に対して質問を投げようとして、やはり失敗した。
 声が出ないのだ。いつものように、普段のとおりにしているのに。
「お前、気づいているだろう」
 銀髪の青年が、静かに言葉を紡ぐ。
 その音の全てがアスランの耳の中にさらさらと、吸収されるように入っていく。
 奇妙なことだ。
 現実の世界には有りえない。音が、音という波が目に見えるなんて。
「俺は不法侵入ではない。幽霊かと聞かれたら、是と答えるべきか否と答えるべきか、俺にも分からない」
 青年が話す言葉が、耳の中に入ってくるのが、アスランにははっきりと感じられた。
 小さな、砂のような細かい粒たちが、さわさわ言わせながら身体の中に入っているそれが、手に取るように分かった。
「俺は、お前を迎えに来た。これを見たら、お前にも分かるだろう」
 そう言いながら、彼の右の手の甲から棒が出てきた。
 するすると伸びて、出てきたそれの先端には銀色の刃が付いていた。
 蟹のはさみのような形をした、青年の身長と同じくらいの大きさだ。
「これで、お前の命をこの世界から連れて行く。見たことくらい、あるだろう」
 ない。一度も見たことはない、そう言いかけて、幼いころに見た死神というやつが持っていたものを思い出した。
 それについて書かれた本を読んだことがある。
「……そうだな、この世界では死神と言われている。俺が、お前の死神になりにきた。気づいているだろう、自分が自分で無くなっていることに」
 死神になりに来た。
 意味が分からないと、理解することを頭が拒みながら、しかしやはりそうだったのか、と腑に落ちる。
「もう直ぐ、お前の身体はこの世界から消える」
 死んだのか。
「そう、だな。この身体が消えるというのは、まあ物理的には違うんだが、肉体はこの世に残るが、魂は消える。今のお前は魂で、それが消えてしまうってことだ。魂の姿であるから、いつもと違うように感じるんだ」
 死んで、俺はどうなる。魂が消えて、それから、俺はどうなる。
 生まれる疑問に、銀髪の青年は、話すことが出来ないアスランの胸の内を見透かしているように、答える。
「魂はこの世界から消えるだけで、別と空間で存在し続ける。そうして、再びお前の魂を求める器が生まれたら、そこにお前は生きる。だが、そこに、今のお前の記憶はない。それは消えてしまう。自殺したような奴は、問答無用でこの世界から魂を引き釣り出して、あるべき場所へ移す。だが、お前みたいに不慮な事故で死んだ奴には、特別に少しの時間が与えられる。そうだな……お前の場合は太陽が昇るまで、残すところ後1時間半というところか。その間、実体は無いが、すきなことが出来る。魂だけが動くから、他人にはお前の姿も声も何も見えないし聞こえない。他に聞きたいことは無いか」
 とにかく、今はまだこの世界に居続けることが出来て、そして好きなことが出来るということなのか。
 そういえば、俺の身体はどこにある、とアスランは尋ねようとした。が、どうやって自分の意見を述べればいいのだ、と思っていると、青年が話しだした。
「お前には声が出せない、その代わりお前が考えていることは俺に聞こえる。お前の亡骸は、今は病院に安置されている。あの後直ぐに救急車に運ばれて、手術中に死亡した。連絡を受けたお前の両親が、病院に駆けつけている。お前は、両親のところに行くか?」
 問われて、頭を振る。
 両親を見たくないわけではない。今まで育ててくれたのに、孝行も出来ずにこうなってしまったことに対する申し訳ない気持ちはあったけれど。
 じゃあ何がしたいのかと問われて、真っ先に浮かんだのは、大好きなあのひとの部屋に行くことだった。
 一瞬で、その場所に行ける、という死神の誘いがあったが、アスランは断った。
 自らの足で彼女の部屋へ向かうことに決めた。
 距離もそう遠いものではない、普段通り、であれば歩いて三分ほどの距離にある。
 真っ暗な夜道に、ぽつぽつと照らされた街灯が、寂しい。
 周りの景色をアスランは、目に焼き付けるようにじっと見つめながら歩く。
 いつもは、こんな風に見ることが無かった、何でもないこの光景を、自分はもう二度と見ることが出来ないのだと思うと、侘しさが胸の中にせりあがる。
 そばには、いとしいひとがいつも歩いていた。
 たった三分なのに、この距離さえも遠く感じられて、何度も引越しを考えては、止めて、考えては止めての繰り返し。
 結局それは適うことが無かったが、そこにも思い出があって、記憶があって、そしてだいすきだったあのひとの笑顔があった。
 こぼれそうになったそれを誤魔化すように笑うけれど、その自嘲的な声も聞こえなくて、ますます悲しくなった。
 噛み締めるように歩いた道のりをアスランは立ち止まり、そして振り返った。
 真っ暗だと思っていた空の西の方から、うっすらと光が上がってきている。
 時間が迫っている。アスランは瞳を閉じて、そして再び歩き出した。
 この階段を上って、一番奥手の扉に手を掛けると、自分の望んでいた場所にたどり着く。いつもなら感じる、扉の重みを感じずに、まるで一枚の紙のようにぺらりと開くそれに、悲しさを感じたが、瞳が追ったのは、この世で一番愛しいひとの寝ている姿だった。
 少し前、約数時間前に見た表情とそっくりだ。
 安らかに眠るその顔色はとても満たされたようなもので、アスランは目を細めた。
 彼は未だ自分のこれから進むべき運命を知らない。
 死んだと知ったら、どうなるだろう。
 想像するまでも無く、それは容易く考えられる。
 だから、アスランは胸が痛くなった。
 きっと泣いて、泣いて、寂しい思いをさせてしまうのだ。
 自分のせいで、彼を泣かせてしまう。
 死ぬことに恐れも、何もない。
 ただ、彼をひとりにしてしまうことが、一番つらい。
 好きだと、想いを伝え合って、事実上恋人同士になった、その数時間後に自分が消えてしまうなんて、遣る瀬無くて、苦しみの息を吐く。
 同時に涙がぱたぱたと零れた。
 昔から、キラと一緒に居るようになってから、一目ぼれみたいに恋に落ちた。
 幼少期の一目ぼれなんて、と冷静になる自分がいたが、それは何年経っても、何十年経っても変わらなかった。
 どこが好きだとかじゃなく、彼が彼であるだけで好きだった。
 しかし、同性を好きになることは、今の時代普通ではなく、だから何度も想いを口に出すのは憚られた。
 いつもそばにいる彼にすきだと伝えようと思ったのは、友人たちの言葉が背中を押していた。
(キラって、いつもアスランのそばを歩いてんのな)
(そんなにべたべたしてるとアスランに恋人が出来ても、キラが恋人みたいだ)
 囃されたキラは顔を赤くして、俯いていて、そのときに、直感的に、もしかしたら、キラも自分と同じように思っているのかもしれない、と確信めいたものを得た。
 それまでは、自分の色目で、彼も同じように思っているのかもしれないと想像することがあったが、幾度と無くその考えを否定してきた。
 相愛なのかもしれないと確信を得てからは、キラとの距離がもっと縮まったように感じられたのは、きっと間違いではないだろう。
 それから、時間が経たないうちに、アスランは一大決心をして、彼に胸の内を告白した。それが、数時間前の出来事。一日も経っていない。
 想いを伝えて、キラから返事を貰って、すぐにベッドになだれ込むことにはならなかった。
 お互いが試験期間中で、試験前にはたっぷり睡眠を摂るという彼の信念を曲げてまで身体を繋げる必要は無いとアスランは思ったのだ。
 キラの気持ちが変わることが無い限り、きっと、ずっと一緒に居られる。
 今までいつも彼のそばに居られたし、これからも居られる、そう信じていたから、気持ちが一方通行ではなく、両想いになったという事実だけで、アスランは満たされていた。
 本当にしあわせだったのだ。
 一緒にベッドで寝ようというキラの誘いに、アスランはキラが眠るまでそばに居るから、応えた。
 キラの使っているベッドは決して人間が二人、しかも大の大人二人が寝るには少し狭くて、これだときっと明日の朝、体中が凝ってしまうと思っての返事だった。
 しかし、キラには違った風に考えられてしまったらしく、拗ねたような寂しそうな表情をするから、しぶしぶ、それでもやはり彼が眠るまでという期限付きで、キラのベッドに潜り込んだ。
 想像通り、下半身は熱くなってしまって、それにキラも感づいたようで、真っ赤な顔にした。
――ごめん。でも今日はしない。キラとのはじめては、ちゃんと、したいから。
 いいながら、彼の手を探して握ると、キラはうん、と小さな声で応えた。
 耳まで赤くして、本当にかわいくて。アスランはしあわせな気持ちで、優しいまなざしで彼を見つめていた。
 それから、少しの時間が経って、キラが寝たことを確認してからアスランは静かに部屋を後にした。
 真っ暗な夜道の中、人通りも車の数も少ない大通りを歩いた。
 キラと両思いになれたことに、浮かれていたのかもしれない、振られると想像していなかったわけではないけれども、でも一足飛びに受け入れて貰えるという確証が無くて、やはり不安な気持ちもあったから、自分の想いに応える返答を貰ったときには、飛び上がるほどに嬉しかった。
 今までにないほど、幸せで世界が眩しく思えた。
 それでも、見なければならないものをちゃんと見ていたと思う。
 青になった横断歩道を渡っていたはずだが、大きなトレーラーが横から突っ込んでくるのが、瞳の端から見えて、思わず避けようとしたのだが、そのスピードの方が遥かに速く、アスランが動こうとしたときにはすでに遅かった。
 接触し、身体が強い力で飛ばされたことが分かったと同時に、アスランの意識と身体は闇の底へと落ちていき、二度とこの世界に戻ってくることは無くなった。
  安らかな、優しい顔で眠る、やわらかいキラの頬を撫で、唇を触る。
 この唇とさえ、重ねることは無かった。
 一度くらい、キス、すれば良かった。
 涙が後から後から流れてくる。
 死ぬのは怖くない。
 けれど、彼と離れなければならないのが、何よりも悲しくて、切なくて、胸が千切れそうに苦しい。
 ひざを折って、自分の唇をキラのそれに近づける。
 キスがしたい、触れようとして、しかし涙を流しながら、アスランはそれから離れた。
 実体の無い自分とキスをしても、したことにはならないだろう。きっとそれは自己満足になるだけで、実体のない自分としても、キラの唇に実際に触れている訳ではないのだ。
 しかし、それでもアスランはキスさえ出来ない事実に、泣きながらも堪えるしかなかった。
 彼の唇をはじめに奪うのは、キラを守るナイトが現れたときのためにとっておくべきものだ。
 亡き自分が奪っていいものではない。
 これから悲しませる存在でしかない自分では無く。
 もう一度、涙で歪む彼の顔を見つめて、暖かな頬をひと撫でしてから、アスランは立ち上がった。
(そこに居るんだろう)
 実際に自分の目でその姿を捉えることは出来なかったが、死神が傍に居るだろうと、アスランには想像が出来た。
「何だ」
(魂は必ずこの世界から召されるべきか)
「……」
 アスランは、昔に読んだ本を思い出した。
 死神の持つ刃を見たのも、その本だった。
(生まれ変わらなくてもいい。この世界で消えたい)
 本来なら、魂は違う世界に連れて行かれる。
 そうして、この世界から魂は消えてしまうのだ。
 だが、今のアスランはこの世界から離れて、違う世界を生きながらえたいとは少しも思えなかった。
「お前、どうしてそれを知っている」
(昔、小さい頃に本で読んだ)
「そうか……本当に生まれ変われなくてもいいのか」
(絶対に生まれ変われるか分からないんだろう。しかも、彼の傍に生まれ変われるのならいざ、彼を守れないなら、生まれ変わらなくてもいい。この世界で消えたい)
 窓からは、空けていく空が見える、もう、朝陽が昇るのも時間の問題だ。
 そして、この魂が消え去る。
 終焉の時が近づく。
「お前がそれを選択するというなら、それでいい」
 俯き加減に応える死神とやらは、手のひらから先刻見たのと同じように、先端に刃のついた刃を出した。
 尖った先が、暗い部屋の中で静かに存在を表していた。
 魂さえも消えてしまう。
 それでもいい。
 本で読んだそれには、魂が粉々になるとき、光の粒になって散っている光景が描かれていた。
 それはとても美しく光り、そして霧散していた。
 それが真実なのか、アスランには分からなかったし、それを死神に確かめようと思わなかった。
 生まれ変わって、他の誰かを愛したくない。
 この魂は、永遠に彼のことを想って消えてしまえばいい。
 願うなら、散り散りになった小さな、小さな塊たちが、キラの行く末を幸せあるものに導けば、彼を守ればいい。
 そして、彼に再び心に決めた誰かが現れたときに、それらが無くなって、全てが無に返ればいい。
 きっと、キラは泣くだろう。
 自分が原因で泣かせてしまう。
 自分には、もう何ひとつ残すことは出来ないけれど、ほんの僅かでもこれから彼を守れたらいい。
 アスランは瞳を閉じて、そして幸せだった、ほんの数時間前の光景を思い浮かべた。
 しあわせだった、何にも変えられないくらい、例えることの出来ないくらい、幸福に満ちていた、それを感じながら、死神を呼んだ。
(やってくれ)
 自分が消えてしまう、それに対する恐れはない。
 ただ、愛するひとをひとりにしてしまうことだけが、悲しくて、心残りだ。 どうか、自分の心をかたどってきた、小さなひかりたちが、愛しいひとを守ればいい。
 刃が振り落とされる音が、風を切る音が聞こえる。
 それは一瞬で、痛みもなく暑さも冷たさもなく、自分の体、もとい魂が、亀裂の入ったところからばらばらに散っていくのが感じられた。
 自分が無くなっていく。
 迫ってくる、終わりの瞬間まで、アスランは唱え続けた。
 愛しいひとが、どうか幸せであるように、と。




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