大切なこと。

第5話*過去と現実





今のままではだめ、だということが、ラクスの中ではもくもくと、胸の中で霧が煙るように、何かが生まれてきている。
これは、このクリニックとは関係なく、ひとりのキラの友人として、このままでは良くない、と思う。
何よりも、どうすればキラをこころの病を少しでも、ゆるやかで静かなところへ持っていくことが出来るのだろう。
今のキラではまるで、現状維持のためのカウンセリングであり、回復に向かうものではない、というのは勿論ラクスにも分かってはいた。
キラに大きな影響を与えたひと。
これが、キラの中に大きく内在しているのは、カウンセリングの初期の頃に分かったけれど、その障害のためか、キラの中の記憶からは風化しているらしく、その後話しに出てくることはなくなっていた。
ちなみに、ここでのキラへのカウンセリングとは、何を行っているのかというと、別にたわいもない話をしているに過ぎない。
どういう状況下、ということを知るために、はじめてここにキラが来たときには、箱庭治療等をし、現状を確かめたりしたが、キラの性格などから判断した上で、今のキラのカウンセリングはお話すること。
といっても、話に興じてげらげらと笑うものではない。
基本的に、キラが日常生活の中で感じたりしたことを話してもらう、またはキラはその障害となっている何かに出くわすと、胸が酷く痛むそうだが、その状況下などを話してもらう。
時にはラクスが相槌を打ったり、または助言をしたらりしながら。
このカウンセリングによって、きっとキラの中での、辛いことを何とか食い止めている、というだけであって、それを浄化させていることはきっとないだろう。
キラの記憶は、今まるで崖に近い所に立っている。







生後1ヶ月程と判断されたアスランだが、ちゃんとした誕生日は分からないままである。
「誕生日……この世に命を受けて、肺呼吸をした日……。」
家に連れ帰った日はトイレシーツで排尿をすることが出来なかったが、フローリングの上でしたおしっこをした後すかさず怒り、トイレシーツを指差し、こっちでするの!と怒るうちに、次の日ではしっかり、そちらで尿を済ませることが出来るようになった。
散歩デビューは未だ先の話になるらしい。
斑点の様子を見ると、ダルメシアンと判断できるけれど、それはとても小さくて、とても愛らしい顔をしている。
街中で見かけることはなくなったけれど、有名はアニメ映画ではダルメシアンを中心に繰り広げた映画があったけれど、あのダルメシアンは相当に大きく感じられた。
それに比べれば本当に小さくて、歩みも何となく頼りなさ感じる。
季節は12月に入り、気温もぐっと冷え込むようになった。
ダルメシアンは寒がりだそうで、室内犬の方が良いう獣医の勧めから、アスランはリビングの一角にゲージを用意され、そこがアスランの住処となる。
出来るだけ、アスランを放って家を空けたくない、と思うと、いつもの散歩に出る気にはなれなかった。
いきつけのコーヒーが飲みたくて、少し口が寂しいけれど、今はアスランがいるのだから、それで目を癒せばいい。
アスラン、と静かに呼ぶと、拾ったときに包まれていたピンクの毛布の上にちょんと横になっていた彼は静かに目を開けた。
黒いひとみのまわりの白い箇所が赤い。
これは寝不足の証拠らしい。
環境が変わったために、寝にくくなっているだろうから、出来るだけ寝れるようにしてくれ、と頼まれていた、獣医の約束を早速破ってしまった。
はあ、と少しばかり嘆息して、アスランの方へと近寄る。
相変わらず、彼は毛布の上に横たわったまま、動こうともしない。
視線をキラに合わせているが、その目は何を思っているのだろうか。
真っ黒い、綺麗な瞳。
こんなにもきれいな瞳を僕は知っている。
けれど、あれは一体なにだったろう。
そう、この子みたいに、じっとこちらを見つめるんだ、とても優しい瞳で。
そうして優しく呼ぶ。
けれど、何を呼ぶ?そして囁いた?
何か思い出せそう、だけど思い出せない。
けれど、確実に、何を思い出さねばならないのか、どんな記憶が眠っているのか、キラには判別さえも付かなくなってきた。
もう少し前までは、何か具体的なかたちみたいなものが、あったはずで。
首を傾けたアスランが、くうんと鳴く。
この首を傾ける、という習性は、きっと母親犬か父親犬の癖が遺伝子的に伝わったものらしい。
普通は首を傾けないという。
「ごめんね、怖い顔してた?……お前はおやすみ。いい夢を見るんだ。」
頭から背中にかけて、ゆっくりと背中を撫でてやる。
決してその手に委ねられたわけではないだろうけれど、程なくすると、アスランの瞳は軽く落ちた。




















「雪です……。」
マンションのワンフロアを買い取り、そこでオフィスが作られたその一角で、ひとりの社員が窓の外を見て言う。
その声で、今までパソコンやら書類に張り付いていた彼らは顔を上げた。
空は暗く、白いそれが散っている。
「今年はじめての雪です……綺麗だなあ。こんな最上階から見ていると、いつもとはまた、感覚が変わっちゃいますね。」
「そうだなー。うわー見てみろよ、あそこもうツリーがイミテーションされてる。」
指差す方向を一同が見ると、そこには都市で一番大きいと言われるツリーの点燈がきらきらと光っている。
その周りを歩いていくひとの中にも、二人連れ―――恋人同士―――の姿がちらほらと見え、雰囲気はクリスマス一色となっていた。
「もうクリスマスなんだよねえ、季節って早いわ……。ここに勤めてもう8ヶ月になったんだものね。あっという間だわ。」
「お姉ちゃんはあっという間かもしれないけど、ユニバーシティー卒業後の就職先がこんなに忙しくて死にそうなんて、私は本当にしんどかったのにい。」
ふたつに髪をまとめたメイリンは、ぶうと膨れ、その赤い髪を揺れさせた。
確かに、この職場が初の就職先というのは、少々方の荷がかったのかもしれない。
けれど、それに見合う時給も貰っているし、職場の顔ぶれやまた交通面、あらゆる面において、非常に良いものだと、ルナマリアは思っている。
「でも、ここは本当にいいわ。ねえ、シン。」
入社当初、あんなに歳若い人間に仕えるのは嫌だと散々文句を垂れていた彼であるが、入社後の社長の手腕に惚れ、今では有りがち彼の信奉者のようにもなっている。
「うん。こんなにもやりがいがある仕事に出会えるとは思ってなかったからな。」
メイリンを除き、シンとルナマリアは別に就職先があり、ユニバーシティ卒業後そこで働いていた。
しかし、勤めだしてからたったの3年後に、会社が世渡りしてしまい、早速のクビになってしまった。
真面目にユニバーシティで学び、そこそこ知名度の高い会社に就職出来たかと思うとあっという間に職を失ったふたりは、一体どうしようかと途方に暮れていたときに、ルナマリアとシンがあたっていた取引先のタツミさんに、ここを紹介されたのである。
あまりにも若い社長、しかも立ち上がったばかりの職場、不安要素は色々とあったのだが、実際に社長の下で働いて、その考えはひっくり返されてしまった。
今までは別の、自分達が勤めていた会社よりも余裕で世間に知れ渡っている会社に勤めていたという彼は、かなりの敏腕だった。
こどもから大人まで楽しんでもらえる、とうコンセプトで作られるおもちゃの製作から販売まで、手広く扱う会社で、立ち上げて間もなく、に生産ルートや、またその販売元を得ていた。
今までに考えていた、と言うおもちゃの試作を入社早々見せられ、検討の上、数少ない社員で話し合い、その後改良されたおもちゃが各販売元の棚に並んだのは、入社して3ヶ月後だった。
その後、売り上げは順調であり、また製作とは別にと手がけていたらしい、仕事さえもこなしていたらしく、かなりの幸先のいい船に乗り込んだ気分であった。
それに見合う働きはもちろん、させられている訳であるけれど、こんなにも充実した気持ちにさせられたのは、勤めだしてから初めてである。
再就職後、こんなにも、クリスマスが眩しいものだと、ルナマリアは初めて知った。
「そういやレイは?」
「ああ、レイならみんなの夜食を買いに行った。」
「何買ってきてくれるのかな、楽しみー。」
あまりにも忙しすぎると、三食の食事が何よりの楽しみになることを知っているだけに、とても嬉しそうなメイリンに何も言えまい。
それぞれに好みのものを思い浮かべ、それを果たしてレイがそれを買ってきてくれる優しさが、彼にあるかが問題であった。
皆忙しい。疲れている。
それを望むのは、買いに行ってくれている彼に申し訳ないような気がして、一同は、思いを胸の中に押し込めた。
「あ、社長!」
扉が開いて、振り返るとどうやら、社長室からひと影が出てきた。
「お疲れ様です、社長。今レイが夜食を買いに行っているんで、この後一緒に食べませんか?」
まるで尻尾が生えた、忠実な犬のようなシンに、彼は嘆息をついた。
「だから、何度も言っているが、社長なんて大仰な呼び方はよしてくれないか。みんなとそう年齢も変わらないし、普通に名前で呼んで欲しいんだがな。」
そういってうっすら笑う彼に、シンはすみませんと言った。
「でも、……。」
「アスランさんっ!」
早速社長の意向に沿おうと、メイリンが彼を呼んだ。
「見てください、外。雪が降ってるんです。綺麗でしょう?」
彼女が指差す方向を指すと、外には暗い闇と、都市の光にてらされてきらきら光る雪がしんしんと降っている。
ぐるりと見渡すと、中心街にある、大きなツリーが見えた。
カラフルなイルミネーションに、降る白い雪に、ひとびとはそこで少し足を止め、そのうつくしい景色に見とれているようだった。
「社長……?」
あまりにも彼の長い時間の凝視に、メイリンは早速アスランの願う呼び方を忘れていた。
その瞳は単純にうつくしさに浸っているようには見えなかったから。
「あ、ああ、すまない。雪は綺麗だな、本当に。今年一番の雪だっけ。」
シンとルナマリアは、アスランの呼び方について言い合っている。
このふたりは中々、言い争いが終わらない。
それでも、ふたりの遣り取りは、聞いていても、嫌な気分にならないのがいいと思う。
「そうです!クリスマスにも降るといいですねえ。」
言いながら、アスランは思いを馳せた。
過去の記憶に。






















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