大切なこと。

第8話*大切なこと





「俺は、怖いです……どうしてクリニックに通っているのか、とかどういう病状なのかということを知るのは、辛い。きっと俺の所為だから……。」
そう言って黙り込んだアスランに、ビアータはどう声を掛ければいいのか、考えあぐねた。
「でも、知らないままいることは、もう出来ないでしょう?」
「ええ。……きっと、自分の中に、覚悟が必要です。」
何かを見据えたような目をした彼には、口で言うほど覚悟がないようには見えなかった。
「そのひとのことを、俺はずっと強いひとだと思っていました。もう何年も一緒に、過ごしてきたのですが、俺はずっと強いひとだと思っていました。けれど、ある日家から居なくなって、そして今回の調査でそのひとが、クリニックに通わざるを得ない状況だということを知って、自分は相手のことをなにも知らなかったのかと、情けないような気がします。」
それは、まるで心の奥から漏れてくる、まるで苦いものを噛み締めたような言葉だと、ビアータは思う。
「でも、それを知ることが出来たのは、決して悪いことではないでしょう?」
「……。」
「何も思わずして、再び会うとなるならば、それはきっと、再び以前と同じことを繰り返してしまうでしょう。気持ちだけがそこにあっても、それに伴うものがないと、歯車は上手く回りませんよね。でも、気づいて、そしてこれから歩み寄っていくとき、それからの道のりは、きっと経験があなたに物事を教えてくれると思います。」
言いながらビアータが腕時計を見ると、すでに十六時を回っていたが、タツミは未だ到着しそうにない。
「ひとりの人間として生きていく上で、沢山のたいせつなことが、この世の中には溢れていますよね。それを道徳ということばで、私達は習ってきたと思うのですが、それよりももっと深い意味を持つ、ことばが”大切”だと思うのです。けれど、大切だと気づくものは、そう普段の日常には溢れていないと思います。溢れていると、そのひとつひとつに対する認識が甘くなりますから。」
それは、ある意味一般化した常識です、とビアータは付け加える
そういって、彼の目を見ると、いまひとつ分かりかねているような瞳がこちらを見ている。
「大切だという言葉の由来をご存知ですか?……大切とは、漢字の通り、大いに迫る、切迫した、という意味が込められているのです。分かりますか?私達普段の中で、切迫した状況に追い込まれるということなんて、そうないでしょう?けれど、まるで、今のあなたは、まるで切迫した状況のように見えます。精神的には辛い時期ですが、このときこそ、ひとは試されるのだと思います。それに立ち向かっていったときに分かることは、きっとアスランにとって大切にしなくてはならないこと、大切にすべきことになるのではないかと、そう思います。」
言ってから、ビアータは少し笑う。
「ふふっ、こんなにも偉そうに言っていますが、これが分かったのは、今回の父とのことがあったからです。しかも、私は教えてもらった身で、これは話してくれたタツミの受け入りなんです。」
アスランの瞳にあった、不可解さの色が晴れ、成るほどというような表情が見て取れ、ビアータは少し安堵の息を吐く。
あまりにも、苦い声を吐く今日の彼は、とても重たい荷物を背負っているように見えた。
責任感のあるひとであるから、きっとひとに言えないようなことを背負い込んでいるのではないかと思い、今日の時間を企てたのだが、まさしくアスランの様子は、ビアータの予想にビンゴであり、またそれは想像以上とも言えた。
少しでも、彼の現状を、悲観的に見なくなっているようならば、これ幸いという気持ちになる。
強張った彼の表情が、少し柔らかくなったように、ビアータには見えた。
「斯く言うタツミですが、約束の時間に現れないところを見ると、やはり仕事から抜けられなくなったようです。申し訳ありません、タツミも貴方にお会いすることを楽しみにしていたのですけれど。」
言われて、アスランは腕時計を見ると、時刻は十六時も半ば過ぎ、もう十七時近い。
ビアータの方にこの後用事があるらしいので、そろそろお開きかと、アスランは思った。
「いえいえ、こちらこそ、よろしくお伝え下さい。そして、今日はどうもありがとう。」
頭を下げたアスランに、ビアータはそんなことをしないで、と早く頭を上げるように言った。
「こちらこそ、婚約の話について、お世話になりました。本当にありがとうございました。これからは、貴方の番だと思っていますから、わたくしに出来ることがあれば、協力させて頂きますわ。もちろん、タツミも。」
「いつも、私は貴方にいろいろなことを教えてもらっている。それが、とても自分のためになることだと、ひどく痛感させられます。本当にありがとう。」
言いながら、ふたりは建物を出て、玄関までゆっくりとした歩みで、その美しい庭を歩いた。
花という花は咲いていないけれど、その緑はとても美しい。
普段はこんなにもゆったりとした気持ちで、景色を見ることもなかったのだなと、アスランは今更ながらに思う。
こんなにも、緑が眩しいのだと、今まで思っても見なかったけれど。
庭を出て、ひっそりとした道路に出ると、そこには用意された二台のタクシーが停まっていた。
「お仕事中に貴重なお時間を頂き、申し訳ありませんでした。そして、私の方こそ、今日はありがとうございました。お会いできて良かったですわ。」
用事があるという彼女を先にタクシーに乗るように促すと、ビアータはありがとうと言って、後部座席の方に乗り込んだ。
「そういえば、アスラン。忘れないでください。大切、という言葉には、”愛”という言葉があるのですよ。かけがえのないもの、という意味から、心から愛する、という意味になり、愛と訳されたこともあるのですよ。では失礼します。」


オフィスに戻るタクシーの中でアスランは、通り過ぎていく景色を瞳に映しながら、ビアータの言っていたことばを反芻していた。
「たいせつなこと……たいせつな、こと……。」
まさに自分に当てはまる言葉だと、思うアスランは、同時に言っていたその言葉の意味も考えながら、まさしく今の自分に必要なことばだと思うのだった。
















晴れたある休日、客が訪れた。
最近、ラクスがよくやってくるので、来客はよくあることであるが、今日やってきた客は、とても久しいひとであった。
「キラさん、お加減はどうですか?」
そういってやって来たのが、会社の同僚で、しかもキラを無理やり休職させた、ニコルである。
「へえ、犬を飼っているんですか?」
やはり、インターホンが鳴ると同時に吠えた、アスランに、ニコルはかわいい犬ですねえと、いつもの笑顔で笑った。
「拾ったの犬がダルメシアンって結構ラッキーかもしれませんよ。最近ダルメシアンなんて、そうそう見かけませんよ。」
そう言って、怯えていたアスランも次第に、それほど本来男性が持つような恐ろしさを持たないニコルに成れたのか、からだを触られても嫌そうにはしなかった。

「で、本題なんですけど。」
と、ニコルは切り出した。
アスランを触る手は止まり、キラを見据えて言う。
「状態はどうなんですか、キラさん? そろそろ課長が復帰の話を持ちかけてきたんですが、先ずはキラさんの状態を見てからでないと決められないと、一応は言っているのですけれど。」
もちろん、未だ元のようではないようでしたら、未だ休職ということでお話出来ますよ、とにこやかに言う。
「でも、仕事とは関係なくして、友人として、キラさんのことは心配です。どうですか、
あれから。」
「う……ん、特別良くなっている訳でもないし、ひどくなっているわけでもないと思うんだけど、クリニックでは……どうなんだろう。」
多分大丈夫だと言おうとして、しかしキラはそれを止めた。
「あ、でも少し酷くなってるって、ラクスが、先生が言っているんだけど。」
自分では、もうあまり意識しなくなってしまった。
以前なら、分からなくなると、あれ?、と思っていたけれど、最近はそういう風にも思わなくなってしまった。
「では、キラさんの気持ちはどうですか?そろそろ仕事に出たいと思いますか?」
ニコルに問われて、キラはうん、と唸ってしまった。
以前なら、確実に仕事をしたいと思っていたと思う。
けれど、今はアスランの世話をしていたいと、思うのだ。
こんなにも素直な、彼を放って、仕事に出たいと思わない。
「うん……。」
それでも、仕事を切り捨てるという気にはならない。
自らの意思を尋ねられると、キラにはすんなりと答えが出てこなかった。
「あ、ごめんなさい。悩ませようと思ったわけではないので、そんなに考え込まないで下さい。仮に、の話ですから。しかも、今はキラさんの希望を聞くよりも、クリニックで現状を聞かないといけないようですし。」
「そっか、もう少しすれば、休職してから一年が経つんだ……。」
いつのまにか、あったはずの記憶がころころと抜け落ちているから、キラには思いを馳せることはなかったけれど、ニコルの目には、それがキラの変貌さをあらわしていた様子に見えて、やるせない感情をその瞳に宿したのだった。
直接の原因となったとは思えないけれど、キラの様子がおかしくなったのは、あのマフラーのことがあってからだ。
それまでは、本当にいつもの日常が流れていたと思うけれど、思いつく限りでは、あの時期から、キラの様子はいつもと違っていた。
どうして、恋は、ひとを想う気持は、こんなにもひとを変えてしまうのだろうか。
それは、とてもあたたかいものであるはずなのに。
そう、ニコルはひっそりと思った。



















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