第5章 Be painful now , but tomorrow surely...... 16
フレイを駅まで送ったほうが良かったのか、と彼女の影が見えなくなってから、思ったが、もう今更だろう。
そんな思いを振り切り、アスランはラクスの敷地内に入った。
インターホンを鳴らしてから、扉に手を掛けると、そこには満面の笑みを浮かべた彼女が立っていた。
「お帰りなさい。」
ここはラクスの家であって、自分の家ではないから、お帰り、という表現は少し違うような気もしたが、アスランは気にしないことにした。
「ただいま。」
それから、彼女の額にキスをひとつ落とす。
キラは、やはり嬉しそうに笑って、リビングの方へと軽い足取りで歩く。
「今日はね、窓の拭き掃除をしたんだ。どう、綺麗になった?」
「もう身体の具合は大丈夫なのか?」
「うん、もうベッドの中は退屈だよ。でも、外には未だ出ない方がいいし、だから家の中を綺麗にしようと思って。」
「しんどくなったら止めるんだよ、キラ。未だ体調も万全ではないんだから。」
「うん。」
扉を開けると、そこは夕御飯を作っている匂いが、部屋中に漂っていた。
「今日はパスタなんだよ。」
キッチンの方を覗くと、ラクスがパスタを茹でていた。
「お邪魔しています、ラクス。」
「こんばんわ。アスランも、食べますよね?」
「ありがとうございます。けれど、俺が呼ばれてもいいのですか?」
「ええ。私はこれから、知り合いの病院に行かねばならないので、キラと一緒に食べてもらえると、嬉しいのですけれど。」
そう言いながら、ラクスはてきぱきと用意を進める。
どうやら、ホワイトソースをかけるらしく、別の鍋に準備されていた。
「じゃあ、遠慮なく頂きます。」
「こちらこそ、ありがとうございます。」
最近、彼女はかなり仕事が忙しいらしい。
今は一介の高校の保健医だが、数年前までは医療現場で働いていたらしいから、そのことで何かあるのだろう。
それなのに、キラの面倒も見ているというのは、本当にすごいことなのだ、とアスランは胸の中でそんなことを思った。
御飯が出来上がると、それを待っていたかのように、ラクスは慌てて家を出て行った。
食器などが用意されていたけれど、それに自分たちで盛り分けて欲しいと行って、ラクスは出て行ったのを見ると、かなり急いでいるようだ。
盛り付けはアスランがしてくれる、というから、キラはテーブルの上にテーブルクロスを並べ、フォークとスプーンと箸をテーブルに並べ、そしてお茶がいつも入っているポットをテーブルに運び、それから二人分のグラスを用意した。
そうしているうちに、サラダとパスタの盛り合わせは終わったらしく、それをアスランが運んだ。
「ねえ、アスラン……そんなに食べられないよ。」
運ばれ、並べられた自分の皿は、明らかにいつも盛られている量が多いように見えた。
元気だったころ、とはいかないが、最近はちゃんと食べられるようになってきたが、まだレストランなどで出されるような量は、消化することが出来ない。
「それ位食べないと、いつまでもキラには肉が付かない。それでなくても、元から細いのに、今なんて以前よりももっと肉がなくなったからね。ちゃんと食べて、身体に少しは栄養をつけないと。」
「うん……、ちゃんと食べるけど、もし食べ切れなかったら、勿体ないでしょう?」
目の前に立ちはだかる、ホワイトソースのかかったパスタはおいしそうだけれど、それを全て食べきる自身はなかった。
「その時は、俺が食べるよ。キラの分をわざと大目に盛り付けたからね。けど、出来るだけ食べること。」
こう言われてしまっては、食べたくないとは言えず、キラはスプーンとフォークを握る。
「が、頑張ります……頂きます。」
今まではラクスかフレイか、そしてたまにやってくる母さんと御飯を食べた。
それは、いつも暖かくて、楽しかったけれど、今日は今までよりもずっと嬉しくて。
だから、出来るだけ食べようと思い、キラはフォークとスプーンを握る手に、力を込めた。
食後の後、アスランが紅茶とクッキーを用意してくれた。
ソファにふたり、隣り合って座る。
やはり、胃に入れたパスタの量は、いつも食べる量よりも酷く多く、クッキーに手を伸ばすことは出来なかったが、アスランの淹れる紅茶はおいしいことをキラは知っていたから、それには静かに口をつける。
「やっぱり、アスランが淹れてくれた紅茶はおいしい。」
素直に感想を口にすると、彼はそうかな、と言って笑った顔を、少し真剣なものに変えた。
「キラ……。」
それは、とても重たいことばだった。
それは、背中に冷たい風が吹き付けるようなくらいの痛みで、嫌な感じがした。
もしかしたら、やっぱり、アスランは後悔しているのだろうか。
やはり、自分と付き合うのは嫌なのだろうか。
悪い予感ばかりが胸を過ぎり、キラは縋るような目で、アスランを見つめた。
「……とても、聞いてほしい話があるんだけれど……。」
聞いて欲しいというのは、どういうことなのだろう。
「それは……。」
「違うよ、別れようとか、そんなことじゃない。大丈夫。」
それからアスランは少しだけ笑う。
もしかしたら、自分が言おうとしたことを、彼は気付いてくれたのだろう。
ひどい、顔をしていたに違いない。
「けど、キラにとっては、とても大事なことだよ。」
それから、彼は笑った顔を、再び暗い影の落ちたものへと変えた。
一体、自分に何か問題でもあったのだろうか。
彼が言おうとしていることは、キラにはさっぱり分からなくて、しかしキラの胸の中は、彼の表情ほど暗くはなかった。
自分が一番に怖いことは、彼と別れなければならないことだけ。
アスランという、大好きなひとと一緒に時間を過ごすことが出来ないこと以外に、苦しいことなどない。
だから、もしも自分に死に値するような要因があったとしても、その自分の命尽きる瞬間まで、彼がそばに居て、笑って、そしてやさしくキスをしてくれたら、自分はきっと幸せだから。
彼と別れること以外に、苦しいことなどない。
「うん、けど……アスランがそばに居ないことよりも、つらいことはないから。」
思いのままに告げたのだが、彼の表情は少しも明るくならなかった。
「キラはそうかもしれないけど、俺は辛いよ。もしかしたら……エイズに感染しているのかも、しれない……。」
アスランは、今にも泣きそうな顔をしている。
しかし、表情は少し笑っているから、余計につらいように、キラには見えた。
「……エイ、ズ……。」
アスランの発した言葉を、キラはゆっくりとなぞった。
それは、保健体育の授業で習ったことのあるものだったから、全く知らないものではなかったし、それはキラにとって恐怖でも何でもなかった。
「エイズって、今では薬を服用すれば何とかなるんだよね。……だったら、別に怖くないよ。」
それよりも、キラにはもっと怖いことがある。
「でも……エイズに感染するようなことを、僕の身体はしたんだよね……。」
普通、エイズに感染することは少ないのだと、キラは習った。
感染の原因は、感染者の血液を傷口が触れたり、感染者と粘膜を交わした場合に起こりえるし、また薬害を回し注射する場合に起こりうる。
普通、きちんとしたひとと付き合っているのであれば、感染を持つ原因などを作ることは、ほとんどない。
そんな中、エイズに感染してしまうということは、不特定のひとの身体の関係を持った、そして今のキラは薬物を身体に摂取させられたときに、使われた注射にも、もしかすれば原因があるかもしれない。
それは、アスランと別のひとと行為を持ったという象徴であり、自分のからだが汚いものなのだ、と突きつけられているように、キラの胸に響く。
「ごめん、ね……こんな人間に、なっちゃって……。」
こんな人間が、彼の恋人になったというのは、本当に辛い。
薬を服用することによって、発症を遅らせることは出来るけれど、決して治ることはない。
もしも、子どもを作るとならば、それはアスランさえもエイズに感染することを意味するし、そして生まれてくるであろう子どもさえも、エイズを持って生を受けてしまう。
自分ひとりの所為で、沢山のひとに迷惑をかけてしまうのだと思うと、それは本当に悲しくて、キラは思わず泣き出してしまった。
「……ごめ、ごめんなさい……。本当にごめんね、ごめん……。」
こんな身体では、彼を繋ぎとめておくことさえ、出来ない。
涙が後から後からこぼれて、キラはその目を手で覆ってしまった。
「……キラはそんなことを気にしなくてもいい。だから、泣かないで。」
彼の手は、キラの手をしっかりと絡み取る。
「俺が感染するとか、そんなことは気にならない。しかも、未だキラが感染したと決まったわけじゃないから、今から泣く必要はないよ。」
「……うん、……ありがとう。」
「だけど、……もしも感染していたら、やっぱりキラはそんな風に、自分を誰よりも傷つけてしまうだろう。それが、何より辛いよ。」