第5章 Be painful now , but tomorrow surely...... 7
ひどい物音に、アスランの目は覚めた。
あたりを見回して、そういや自分はラクスのソファで寝ていたことを思い出す。
ブラインドの置くから見えるのは、まだ暗い夜で、腕時計を見ると、やはりまだ日が変わったばかりだった。
目の覚める原因となった物音は、一向に止むことはない。
それは、どこか壁を隔てた別の部屋で起きているようだ。
しかし、それは尋常なものではない。
物を意図的に破壊している音。
アスランは思わず、リビングを出た。
一階の部屋は全て見て回ったが、ひとのいるような雰囲気はしなかったから、どうやら二階のどこかの部屋のようだ。
階段を上り、ひとつひとつ部屋の扉の前で耳を澄ます。
二階部分の一番奥の部屋で、それは響いていた。
陶器の割れる音、何か布を引き裂くような音。
そして、キラのものだろう、呻き声。
それを宥めるラクスの声。
そこは、見えない何かが詰まっていて、アスランには一体どうなっているのか、分からなかった。
扉を少しだけ開け、部屋の様子を覗くと、そこはもう言葉には出来ないような惨状だった。
どうやら客室を使っているらしかったが、そこに調度品として置かれていただろう、花瓶は毛の長い絨毯の上に放り投げられ、水が散っている。
生けられていたらしい花は投げられたのか、床から少し離れた位置に無造作に落ちていた。
ベッドの傍にあるカーテンは引き裂かれ、見るも無残な様子である。
そして、一番アスランの目に恐ろしく見えたのは、キラの暴動だった。
低い唸り声を上げ、自分を傷つけている。
何もかもラクスに取り上げたのか、きっと身近なものが自分の爪と拳で、それで自分自身を引っ掻いているらしい。
喉から吐き出されている呻き声は、言葉とは言い切れないほど濁ったもので、その瞳はあの柔らかかったものをどこかへ捨ててしまったような、くらい色が広がり、それは血走っていた。
ラクスは、キラの自身を傷つける行為を、力の限り止めているようだった。
想像を絶する光景に、アスランはしばらく言葉を失って、ただその光景を見つめているだけだった。
どうしようもなく、アスランはとぼとぼとリビングへと戻った。
未だにどんどんとした響きは階下まで聞こえてくる。
ソファに座り込み、アスランはひとつ息を吐いた。
この、先の見えない闇はいつか晴れるのだろうか。
これが、夢だったらいいのに、とそんな楽観的なことを考えてはいけないのだろうか。
アスランの目蓋には、先ほどのキラの様子が浮かんでは、消え、浮かんでは消え、それを繰り替えてしている。
それから、脳裏に描かれるのは、あのしあわせだった日々。
あんなにもやさしかったキラはどこへ行ってしまったのだろう。
物理室で顔を赤くして告白したあの日、なんてかわいいのだろうと思ったことを、未だアスランの中にはしっかりと刻まれている。
自分の腕の中で熟れていく、まるで華のようなキラはひどく妖艶で、自分の欲望の止まるところがないことを自覚した、あのクリスマスの日。
はじめての旅行。はじめてのキス。
その記憶は色あせることなく、アスランの中でそっと息づいていた。
それが、あんなにも恐ろしいほどに一変したのは、薬の副作用であるし、またその薬も無理やりだろうというラクスの言葉があったけれども。
それでも、僅かな自分の中の決意が緩んでいるような、溝が生まれたような、そんなものがアスランを襲った。
好きだと、愛していると彼女に言った、その気持ちにうそなど、ないはずだ。
ないと信じている。
抱きしめたいと、つい先ほどまで思っていた。
一昨日のキラとの三者面談では、母親に自分の、キラとの関係を打ち明け、心にしっかりと決まっていると、再確認した。
のに、このぐらぐらと揺れる気持ちは、一体何だというのだ。
気分はくらいまま、寝付くことも出来ず、ただ時計の針が動くのを見ていると、ラクス、がリビングにいつのまにか姿を現していた。
そういえば、二階から響いていた物音も静かになっている。
ああ、終わったのだなと、そんな安堵の息をアスランは、知らずと吐いていた。
ラクスはその彼の表情と、吐き出したそれを見逃さなかった。
「見て、どうでした?」
やはり、ラクスは、自分が部屋を少し覗いたのに、気付いていたらしい。
鋭い彼女の瞳から、アスランは逃れることが出来ない。
「どうも何も……。」
否定の言葉が、口から出てこづ、それは結局ことばにはならない。
それは、ラクスの目にしっかりと収まり、その瞳はますますと冷たくなっていった。
「あ……何でもない……。」
それに対して否定しようとして、止めた。
一体、何に否定しようというのだ。
何に対して否定しようとした?
「アスラン、貴方はもう帰った方がいいのでは?」
冷たい、氷のようなそれはアスランの胸にぐさりと刺さる。
氷は水に溶けてしまうけれど、その鋭さはひどく痛い。
何に対して、否定したのか。
それは。
「今のあなたに、キラを抱きしめることなどできないでしょう。」
そう言う彼女の腕には、いくつかの蚯蚓腫れのようなものがある。
それは錯乱したキラが自身を傷つけるのを止めさせようとしたときについた、傷跡なのだろう。
「部屋が違えど、そういう雰囲気は伝わるものです。夜中に、もう明け方なのですね……明け方で申し訳ありませんが、今日はもう帰ってください。」
離脱症状が抜けた後のキラは、ひどく体力を消耗しているのか、眠りにつく。
しかし、それも浅い眠りのためか、それ程大きくない物音にも反応してしまう。
だから、キラはそれを聞き逃すことはなかった。
未だ明けてもいないうちから、誰かが家から出て行く音を。
知らないひとの手がいくつも、身体を触る。
それは、ごつごつした、気持ち悪い手。
だけど、それを自分は誰なのか、はっきりと分からなくて。
だけれど、名前を呼ぶその声は、あのだいすきなひとのものなのだ。
やさしく呼んでくれるあの、だいすきなひと。
「キラ。」
と呼ばれているように聞こえるから、指の感触は違うけれど、自ら腕を背中に回してしまう。
目と閉じて、その心地よさにうっとりとなるのだ。
そうして、身体の奥まで暴かれるのだ。
男根でぐるぐると掻きまわされて、そして、欲望を叩きつけられる。
それが何度も繰り返されてから、いつも気付くのだ。
それが、あのだいすきなひとではないことに。
「……っ。」
いつも見る夢だ、と自分を宥めるけれど、胸の中で不安だけが踊る。
こんな自分だから、あのだいすきなひとは、この家から出て行ってしまったのだ。
こんな、汚い夢を見るから。
こんなにも、汚い自分だから。
汗をかいているだろうと、濡れたタオルを用意し、キラの身体をラクスは1日に一度拭くようにしている。
今日も、いつもと同じように上半身を下着姿にしてから、冷たいタオルで身体を拭う。
ひととおり拭き終わり、再び服を着せようとすると、ラクス、とキラが呼ぶ。
「きれいになるまで、拭いて。」
「……いつものように拭きましたよ?。」
力加減がいつもより弱かったのだろうか。
季節が夏であるうえに、副作用のために発汗が激しいために、決して手を抜かないようにしているはずだ。
「だめ、なの。」
「だめ、とは……?」
「もっと、もっと擦って。きたない、から。」
「キラさま。」
キラが普通でないことを察知したラクスは、手ぬぐいを持ってきた盆の上に置き、彼女に向き直る。
「キラさまはきれいですよ、何を言うのですか。」
瞳を見つめるが、それはどこかに焦点がずれていた。
「ううん、ぼく、きたないでしょう。だから、みんな逃げていくんだ。指輪も、思い出も、たいせつなひとも……。」
濁った瞳は、覚せい剤を使用した証のようなものだ。
澄んだ瞳は、作用が抜け、また中毒が消えれば、取り戻すことが出来ると、専門書には書かれていた。
だが、それはいつ、キラに訪れるのだろうか。
濁っているから、薬が身体から抜けないから、こんな消極的な、後ろ向きの発言をするのだろうか。
澄んだ瞳になれば、前を向いて物事を見つめることが出来るのだろうか。