第6章 ありのままに抱きしめて。壊れるほどに笑って。 2
「次は学年対抗リレーです。選手のみなさんが、入場します。また、この種目の後、綱引きに出場する選手のみなさんは、ロビーに集まってください」
午後の種目も順調に大きな事件などもなく進んでいく。
終盤へと近づくなかで、例年大きな盛り上がりを見せる綱引きの召集が掛かると、生徒の多くが集合場所へと向かっていき、保健室からも、窓から見える応援席に座っているだろう生徒の数も、かなり減ったらしい。
ざわざわと騒がしかった少し前に比べて、静かになったような気がするのは、気のせいではないだろう。
だから、余計に耳に入ってくる音には敏感だった。
「お疲れですか?」
音を立てずに、自分の隣に立つ、いとこの顔を横目に見て、ラクスは意地悪く笑う。
「そういう、ラクスこそ」
そ知らぬ顔で、そう返してくるアスランの顔はいつもと変わらないようで、やはり目の下の薄っすらとした色の濃いものが、あまり体調が芳しくないことを訴えている。
「一週間後ですものね、文化祭は。……この学校の体育祭と文化祭のスパンがどうしてこんなに短いのか、不思議ですわ。ですけど……」
「分かっています」
「ならば良いのですけれど。ご存知の通り、もうあと少しの時間ですから」
舞い散る歓声の中、学年から選ばれた3人の選手が、土の上を思い切り蹴り上げていく。
足が速いという訳ではないから、キラを選手らに重ねることはなかったが、この学校に居ない彼女のことをおもうと胸が痛む。
そして、その気持ちは隣に立ついとこも同じ位に、またそれ以上に苦しんでいるはずだろう。
きっと、彼女自身さえも相当に脅えている、検査を行えるまでに、残り数週間。
それは、短くもなく長くもなく、しかし苦しみを与えるには十二分でもある。
忙しさからその苦しみを一時的ではあるけれど頭の片隅に置いておける自分たち。
それが、どうしようもなく歯がゆくて、情けないと思う。
パン、と鳴る音と、ざわつく大きな歓声と、そして視線の先には見事1位を果たしたのか、ゴール地点で大きな人だかりだ出来ている。
騒がしく、しかし嬉しそうな黄色い声は、まるできらきらと光っているように、ラクスの目には映った。
* * *
もう、何ヶ月もまともに外に出ていないと思う。
窓から見るだけの景色は、殆ど大きな変化が見られることはないけれど、だからこそ小さな変化だって、見つけられる。
例えば、木の葉の色の変化だとか、空と雲の動きだとか。
窓越しではなく、自分の目で直接に見ることが出来たら、もっと素敵だろう。
だからといって、出たいとは思わない。
本能的な部分というのだろうか、身体の奥底から、この家という空間から足を出したいと思わないし、思えない。
けれども、今日のラクスの格好を見て、いいなあと思う気持ちもある。
学校に、行きたいなあと思う気持ちはあるけれど、やっぱり怖い。
記憶に色濃く残っているあの暑さをきっと、忘れることは出来ないだろう。
茹だるような湿気と、生ぬるくひらりと通り過ぎる風を感じたあとに、見たあの景色と感触と。
学校帰りで、制服を着ていた。
ひとつ思い返すと、芋づる方式のようにずるずると出てくるそれらは、キラの肌をぶるぶると振るわせる。
自分の負の部分だけを掻き集めたような、あの醜い醜態は、記憶の隅に未だにべとりと貼りついたまま、度々キラの胸を犯す。
引き裂き、抉れる限りを抉り付くし、まるで骨の髄まで奪っていくように。
「……う、ぇあ……」
胃の中をぐるりと何かが回るような、奇妙な感触を感じた瞬間に、何かが押し戻されてくる。
慌てて受けた手からだらりと垂れてくるのは、昼に食べた食事の消化されていないものだった。
気持ち悪い、とか、そういう生理的な気持ちが沸いて、それから時間が経たないうちにもどすことはあったけれど、こういうことは初めてだと、ぼんやり思う。
胃酸の匂いだろう、酸っぱさを含んだその吐しゃ物を、向かった洗面所で流し、液体石鹸で手を洗った。
確か小学校で習った記憶がある。
石鹸で、黴菌を落とすことが出来るのは精々六十%くらいだと、先生が言っていた。
自分の汚れた部分も、六割でもいいからきれいになればいいのに、と思う。
いっそ、忘れられたらいいのに、と思う自分は厚かましいのだろうか。
鏡に映った自分を見ると、ひどく惨めな気持ちになる。
ひとは、過去に囚われながら生きるのだと、誰かが言っていたような気がする。
明日に向かって、永遠に掴むことの出来ない明日に向かって歩きたいと、そう願っているのに、無理なのだろうか。
泣きたくても泣けない。苦しいのに、口に出来ない苦しさ。
どんな表情さえも出来なくて、だからキラの顔は無表情さと暗いものを暗澹と漂わせていた。
時間は過ぎて、闇へと近づいていた頃に、ラクスが帰ってきた。
「お帰りなさい」
「只今。今晩御飯の支度をするので、待ってくださいね」
ぱたぱたとスリッパを鳴らして、リビングへと顔を覗かせると折り返しに、部屋を出て行く。
ものの短い時間の後に、簡単に着替えた格好にエプロンを手に持って、やはり慌しそうにスリッパを鳴らす。
「今日はリゾットをしようと思っているのですけど」
「おいしそうだね……って、手作り?」
「ええ、勿論ですわ。三十分ほどまって頂ければ、昨日のうちに下ごしらえは済ませていますから」
「へえ」
冷蔵室から取り出した葱を刻みながら、大きな金属で出来たなべのようなものを取り出し、米と水の分量をあわせながら、調味料を出しては計量していく。
ラクスの手早い作業に、いつものように舌を巻いて見ていると、インターホンが鳴った。
「僕、応答するね」
「ええ、お願いします」
リビングに行き、インターホンと繋がっている受話器を取り上げると同時に、家の戸の閉まる音がして、キラは思わずそちらを向く。
静かに歩いてくるその姿を見つけて、思わずキラは声を上げた。
「あ、アスラン!」
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