プリズム 1話






 幼かったころ、コーヒーは苦いものだと思っていたのに、今はもう、あの苦さが美味い、と思うようになった。
 チョコレートの甘さは、いつでも口に含んでいたいと思っていたけれど、今は疲れたときに食べるくらいで、普段から食べたいとは思わない。
 小さいころ、大好きだった絵を描く、その行為は何事にも耐えがたく面白かった。
 どれ程書いても、描きたいものは増えていった。大好きだったおもちゃ、母が買ってきたお菓子、冷蔵庫に眠る野菜、花。一番に楽しかったのは、母がつくるロールキャベツだった。
 赤いトマトソースの中にちょこんと所在する黄色のような緑のようなその野菜は、柔らかい肉を丸めて、湯気を立たせて、今にも食べてくれといわんばかりで、なかなか見たままのおいしさを描くのは難しかった。
 その才能を一番に理解してくれたのは、母だった。
 描いた絵はすべて母が一枚一枚丁寧にファイルに納め、そして褒めた。
 にこにことした彼女の顔は、いつでも見ていたいと思わせるような表情で、アスランは子供心ながら、その顔を見続けたいと思ったくらいに素敵だと思った。
 学校の通知表は、学業に関しては褒められるような成績はとれなかったが、絵、図工にだけは誰にも負けていない自身があった。
 といっても、友達が描く絵が下手だとは思ったことがない。自分は勉強が出来ないけど、絵は得意。だけど、友達は絵が苦手だけど、勉強が得意だ、と今から思えば子憎たらしいことを考える小学生だった。
 開催されるコンクールのようなものにはすべて出展され、そして賞を貰えば、自分の書く絵が、顔も知らない誰かが見て、(いいなあ)と思ってくれているのだと思えば、益々描く気持ちが沸いてきた。
 そのころはひたすらデッサンばかりを描いて、描いて、描きまくっていた。
 絵の勉強が出来る中学校に行ってみたら、と強く推してくれたのは、母だった。
 絵を描ければ、学校には入学出来るという言葉につられて、出来なければならない最低限の学業もこなすようになった。絵のためだ、と思えば、する気のなかった勉強は苦ではなくなった。
 成績は問題なくあがり、無事に入学を果たした。
 中学では、小学校とは比べ物にならないくらい、絵の授業では、ためになることを話してくれた。
 授業時間は、小学校の時とはあまり変わらなかったけれど、美術の時間は何倍も楽しくて、そのために一週間を乗り切る、という感じでもあった。
 高校は、中学と同じ敷地に併設されたエスカレータ式の学校に行くことになった。
 母は、幼いころと変わらずに大手を振って応援してくれたし、父も絵を描くことには半ば呆れたような笑いを見せることがあったけれど、決して非難するようなことを言わなかった。
 お前には、才能があるんだから、勉強だってすればいい成績が取れると思うんだけどな……という小言を、やはり笑いながら付け加えて言うのが、父の癖だった。
 というのも、高校にあがってからは、絵を習う時間が格段に増え、また試験内容にも絵を盛り込まれていたため、学業はそっちのけで絵に没頭していた。
 その結果、数学や理科系は赤点スレスレで、よく担任や両親を困らせていたのだ。
 しあわせだった。というのは大げさなのだろうか。そのころは、満たされていた。両親はそろって笑っていて、そして楽しい絵を描き続けられ、それ以外に望むことはなかった。
 それを破ったのは、両親の死だった。
 描いた絵が賞に入ると、父と母は必ずふたりそろって会場まで足を運んでいた。一緒に来る、なんて誘われたこともあるけれど、それはあまりにも照れくさくて断っていた。
 いい年して、親子で見に行くなんて恥ずかしい、と思う気持ちもあったし、あまりにも父と母の仲がむつまじくて、その中に入るのはなんとなくいやだった。
 その日も、彼らはそろって出かけ、絵をふたりで見たその帰路で鬼籍のひととなった。
 原因は無差別殺人。計画性のなかった犯人は、誰でもいい、という思いのままに刃を人間に突きつけた。
 その対象が、父と母だった。
 ホールを借りて行った式には、父の仕事関係のひと、そして母の友人たちが多く訪れた。
 悲しいとか、そういう感情はいまひとつ湧かず、ただ、そこにある現実が信じられないものだった。
 涙を流すひとたちを見て、そして真っ白な肌をした、ただ深い眠りについているような父と母を見て、だんだんと胸に迫る圧迫する何かを感じた。
 幸い、お金だけはふんだんに残していてくれたようで、遺産相続だの手続きをふんでも、なおあまりあるそれに、学校を止めなければならないとか、家がなくなるとか、そういった悩みがなかったのは、不幸中の幸せというのだろうか。
 父方の兄弟、つまり自分から見ればいとこの叔父が、後見人としてついてくれたために、父と母がいなくなったことを除けば、何一つとして生活に対する変化は起きなかった。
 がらんとした、無人の部屋はあまりにも広くて、リビングに居るか、自分の部屋のどちらかであったけれど、圧倒的に自室に篭ることが多くなった。
 以前リビングは、いつも母が何かをしていて、扉を開ければ必ず目を合わせてくれたし、何よりあたたかかったのだ。
 しかし、現実は誰もそこにはおらず、静かに空気だけがぬるりと漂っている。それに耐え切れず、用がなければ部屋に閉じこもっていた。
 しかし、閉じこもって何をすることも出来なかった。あれほど楽しかった絵を描くことが、出来なくなってしまったのだ。鉛筆を持っても、筆を持っても、描こうという気持ちはまったく浮かばなかった。
 何気なく手を動かしても、何を描いているのかさっぱり分からず、描いてもすぐに破り捨てた。思うように手も動かない、それ以前に描きたい気持ちも湧かない。
 それは、過去に一度も経験したことの無かったものだった。
 描くことに苦痛など感じたことはなく、いつも時間が足りないと思っていたのだ。
 たまにスランプというものがあって、描けないことはあったけれど、それでも描きたい、という気持ちはいつも揺るがないものだった。
 しかし、気持ちとは裏腹に、学校では授業があり、そして試験がある。
 絵を描くことが当たり前のような生活の中で、絵が描けない、というのはある意味致命傷のようにもアスランは感じた。
 担任には、何度も励まされたが、授業には出ても試験には、望めず、単位を落とし、進級が危うくなり、思い切って学校を止めることにした。
 休学という道もある、という担任の言葉は親身になって語ってくれるあたたかみのあるものであったが、しかしアスラン自身が絵を描くという行為に対して苦痛を感じるようになったことを知り、強く引き止めることは無くなった。
 何かあったら連絡しなさい、出来る限り力になるから、という言葉を添えられて、アスランは、母の薦めた学校を後にしたのだ。

 つらつらと、過去の記憶が頭の裏からまるで走馬灯のように流れて、目が覚めた。
 そばに目をやると、どうやら、学校の敷地内にあるカフェに入っていたらしい。思い出すことのなかった記憶が突然目の前に現れ、アスランは深く息を吸い込んだ。
 そして吐いて、握っていたコーヒーをひとくち口に入れた。
 冷えたそれは、さすがに少し高めの値段をつけているだけに、冷えていてもまずくはない。
 しかし、後味に残る苦さが、今はどうにも受け入れられず、結局アスランはそれを飲み干さず、カップから手を離した。
 そういえば、どうして自分はカフェなんかに座っているのだろう、思い直してアスランは憂鬱な現実を思い出した。
 自分は罰ゲームを受けることになったのだ。
 なんてことない、ゲームの内容はレポートの点数の競い合いだった。
 負けることはないだろうと思っていたら、どういうわけが、三人の中で一番悪い成績――といっても授業を受けている中の平均でいえば決して悪くはないのだが――で、結果罰ゲームを受ける羽目になった。
 その内容を決めるために二人が集まるというから、ここにやってきた。
 一度高校を退学してから、すぐに通信制をとり、大検をとった。その後にも、大学に入学して、今に至る。
 絵を描かなくなってから、することが無く、勉強することで時間を潰す、という生活を送っていたらば、成績は不思議なほどに上がり、不勉強のころには考えられないような、名の通った大学に入学出来た。
 暇さえあれば勉強をしていた自分が、まさか、負けるとは思っていなかっただけに、憂鬱な気持ちは隠せなかった。決して不真面目な人間ではないのだが、真面目ともいえない彼らに負けるとは思いもしなくて、鼻を挫かれたような気持ちにもなった。
 結果については、仕方がないと諦めも出来るが、罰ゲームだけは嫌だなとアスランは思った。
 真面目とはいえない彼らのすることは、時折突拍子もないことで、アスランは今までにも何度かあおりを食っているのだ。
 出来るだけ、普通の罰ゲームがいいなあと、願ったがそれは難しいのだろうな、と簡単に想像がつくから悲しい。

 程なくして現れたのは金髪の紙をもつミゲルと、オレンジ色の髪をしたラスティだった。
 ふふん、と言いたげに現れた二人を見て、アスランはため息をつきたくなる。それくらい、何か悪巧みのようなものを嬉々として想像しているのが、手に取るように分かる。
「で、俺は何をしたらいいのかな」
 わざと謙って尋ねると、二人は計ったように声をそろえた。
「ある女の子を口説き落とすこと!」
 にやにや言うから、余計にタチが悪い。というか、余計も何もタチが悪すぎる、とアスランは心の中で叫んだ。

 今は使われていないK校舎の四階の奥に進むと、静かな静寂の中から音が聞こえた。
 どうやら、それはピアノの音らしい。
 近づくにつれて、音がだんだん鮮明に聞こえてくる。
 足音を立てないように、静かにあるいて近づくと、どうやら部屋の中にあるピアノを弾いているらしかった。
 ピアノを弾く友人をアスランは知らなくて、はじめて間近で演奏者を見た。
 扉の小さなガラス越しに映る姿は茶色い髪をしたショートカットの女の子のようだ。
 見える横顔の視線はグランドピアノの蓋を開けた弦の方へと向いている。
 もの凄い勢いで指が動くのをみて、これが人間業なのかと一瞬思い、聴いたことのある曲だなと思った。
 テレビでも何度か演奏されているのを聴いたことがある、有名な『革命』という曲だ。
 悲壮感たっぷりの曲で、聞いた後にはどん底とまではいかなくとも、くらい気持ちになる。
 けれど、嫌いだとか苦手な曲だとは思わなかった。ただ聞いているだけの時には、なんとも思わなかったが、実際に見ると、指の動きは半端じゃないと思った。
 とりあえず動く、動く、とまっている一瞬も無いのかと思うくらいに。気付かないうちに、あっという間に演奏が終わったのか、そこは静寂に包まれて、彼女の視線がこちらへ向いた。
 視線を逸らすべきか否か、迷っていると、彼女はうっすらと笑みを浮かべて、再びピアノへと視線を戻した。
 白と黒の鍵盤の上を指で少し遊ばせてから、一度ゆっくり目を閉じて、何かを決めたように何かを引き始めた。
 次に聞く曲は、聞いたことの無いものだった。先ほどのくらさとは違い、かわいらしい、たとえば小さくてきらきら光るものが飛んでいるような、そんな印象を受けた。
 しかし、指の動きは先ほどと同じくらいに早く動きまわる。息を呑む間もなく、曲は進み、先ほどよりもずっと早く曲は終わった。
 思わず、アスランは拍手をしていた。ひとりでする拍手は、ぱらぱらとしていて何とも情けないような音にも聞こえたが、すごいと思うものに出会った今、それを伝える手段は拍手のほかに浮かばなかった。
 久しぶりに、胸に触れる何かに出会ったなと、手をたたきながらアスランは、はたと考えた。自分は何をしに来たんだろう。
 罰ゲームのある女の子を落とすために、よくそこにいる、という場所を訪れてみたのだ。茶色い髪の毛に、アメジストの瞳、顔立ちは整っているぜ、という言葉には確かにうそは無かった。
 きっと彼女が、彼らの言う女の子なのだろう。彼女の引くピアノに聞き入って、ぼんやりしていていいのだろうか。
 そもそも、女の子にどうやって近づけばいいのだろうか。
 いつも、そばに誰かがやってきて、そしていつの間にか離れている、という構図しか経験したことのないアスランには、今をどうすればいいのかよく分からなかった。
 (落とすって……俺にはそんな、だめですよ。そんなこと……)
 (だめってお前、そんな純情ぶるなあ。今まで散々泣かしてるやつが、聞いて呆れるぜ)
 とラスティは言い、
 (だめじゃないだろ。これは罰ゲーム、だ。約束だろ?あ、もちろん落としたっている証拠付な。証拠の形は問わないから)
 とミゲルは、先輩面をして言う。一度言い出したら引かない彼らに何かを言うのは、益々疲れるだけだと経験をもって知っているアスランは、がくりと肩を落とし、聞くべき情報などを聞いただけで、何も考えずにやってきた。
 きっと、今日は居ないんじゃない、という希望的観測を胸に抱いて。
 それが、実際彼女はその場所に居て、あまつさえ彼女の弾く姿に聞きほれて、目まで合ってしまった。
 何か言えばいいのだろうか、頭の中で色々と考えているうちに、彼女は椅子から腰を上げてこちらに近づいてきた。
「ピアノを聴くなら、中に入ったら」
 何か返答をすべきなのだろうか、と考える間もなく、彼女は再び教室の中へ入ってピアノの前に座る。
 今更教室を後にするのも変な気持ちがして、教室の中へ入ることにした。
 静かに足を踏み入れ、扉を閉める。どこに居たらいいのか、やはり分からなくて、扉の前で突っ立っていると、再び彼女の方から口を開いた。
「どうして、ここに?」
 今度は答えないわけにはいかないだろう。
「ピアノの音が、聞こえたから。……とても凄いと思う、きみの弾くピアノ」
 ここに来た理由は真実とは言い切れなかったが、ピアノの音色に対する賛辞は真だ。
「そうかな、ありがとう」
 照れたように言って、彼女は目を閉じた。
「でも、僕はあんまり好きじゃないかな。自分の弾くピアノ」
 静かにこぼれてくることばは、たとえばそれに色をつけるなら、やさしい海の色だと思った。
 彼女の言う、自分のピアノがすきではないという意味はなんとなく分かるような気がした。口にしようとしたけれど、そのまま胸の中に気持ちを閉じた。
「へえ。俺は凄いと思ったよ。指の動き、早すぎて」
「確かにね、僕もたまに思うよ。自分でもびっくりするくらいに指が動いてるもんね。けど、これって体、というか、指が覚えてるんだ、次の動き」
「まるで、指が絡まるんじゃないかって思った」
 言うと、彼女はまさか、と言って笑った。
「そんなに長さがあるわけじゃないから、絡まらないよ。はじめて聞いた、そんな意見」
 いい終わってからも、彼女はくすくす笑う。
 あどけない姿を見て、アスランは不思議に思った。ラスティやミゲルから聞く限りは、なかなか他人と馴れ合わないと聞いていた。
 決して何かを鼻にかけている訳ではないらしいが、彼女の纏う雰囲気に近づきがたいものがあるのではないか、というのが彼らの見解だった。
 そんな子に自分が近づけるのだろうか、と危惧していたのだけれど、杞憂だったのだろうか。
「あの……二曲目に弾いたのは、何ていう曲?」
 あまりにも笑われると、なんだか恥ずかしくて、アスランは気になっていることを尋ねてみた。
「ああ、あれは『黒鍵のエチュード』って名前。二曲とも、作曲者は練習曲のためにかいたんだって。ちょっとした手始めにみたいに」
「へえ……それはまた、凄い……」
「僕も知ったときは、びっくりしたよ」
 それから、彼女は少し笑った。
「じゃあ、僕はこれから弾くから、聞きたいならここに居てくれてかまわないし、飽きたらどうぞ。第一、ここは学校の敷地内で、僕に何の権限もないんだけど」
 開けっぴろげに言って、膝の上においていた指を鍵盤の上において、先とは違う真剣な表情を、さっきと同じように弦の方を見つめた。
 それから、彼女はアスランの知らない曲を何曲が引き続けた。
 今度はゆったりとした曲だと思ったら、途中から激しくなったり、また穏やかになったりで、それは風に靡く緑のじゅうたんのようだった。まるで音に色をつけられそうな、胸の中にとびこんでくるフレーズは、とてもきれいだと思った。
 どれくらい時間が経ったのか、分からなくなるくらいに没頭していたらしい。
 ピアノの音が止まってから、時計を見ると、もうすでに一時間以上、そこに立っていた。
 十分に弾いたのか、彼女は席を立って、ピアノを片付け始めた。
「途中まで一緒に帰らない?」
 彼女の弾くピアノの音には、掛け値抜きにしても、とても自分のすきなものだと思った、過去に聞いた、テレビなどから聞こえてくる音には、何とも思わなかったのに、彼女の音はすてきだと思うのだ。
 この感情をもっと知りたくて、アスランは頷く。
 頷いてから、気づいた。
 そういえば、この女の子を落とすのがゲームだったのだ。
 ゲームが無ければ近づかなかっただろう、しかしゲームの件が無ければもっと気楽な気持ちだったのかもしれない。
 呪ってもどうしようもない気持ちにため息をつきたくなったが、今のこの彼女へのピアノの音の好奇心は抑えられなくて、アスランは彼女が帰り支度をするのをじっと見つめていた。





Back / Next