それぞれに受けている授業があるから、いつでも彼女が居るというわけでは無かったが、それでも空き授業の時にその校舎へ向かえば、ピアノの音が聞こえてきた。
通い始めて、今日で四度目、しかし、前回までの三回は無人であったから、実質七度通っていることになる。
ゆっくりと話したのは、初めて会った日の帰り道だけだ。
駅までの距離で、時間にすれば短くはあったが、しかし彼女のピアノに対する熱弁ぶりに、何か深いおもいがあるらしいことは十分に伝わってきた。
幼いころからピアノに嗜んできたこと、発表の日が近くなると小さいころは何度も泣いたこと、トラウマから苦手な作曲家がいること、ピアノを作るメーカーのこだわり。彼女のピアノに対する位置づけを聞くと
(呼吸みたいなもの、かな)
と、迷い無く答えた。まるで、いつもそんなふうに答えているみたいに。
(ピアノを弾くことが当たり前なんだ。弾けない自分は、自分じゃないって思うよ。だって、僕にはピアノしか無いから)
(じゃあ、どうして音大、みたいな学校に通わなかったんだ)
(それは無理だってわかるんだ、ピアニストになれるほど、人にみせられる腕じゃないって)
諦観したように呟く姿は、自分に何か言い聞かせているようにも聞こえたし、どうにもならないことだと諦めて、それを吹っ切った、というようにも聞こえた。
(きみは、ピアノに興味がある?こんな話を聞いていて楽しい?)
ピアノという楽器には、残念ながら興味は無いが、彼女の弾くピアノには、何か自分の胸に細波みたいに、引いては押し寄せて、やわらかな何かが入り込んでくる。
それは、無理やりこじ開けるのではない。君のピアノには興味があるよ、と伝えると、ありがとう、と彼女は薄く笑った。
ちょうど、そのとき駅の前に到着してしまい、そこで彼女とは別れた。
同じホームだったら、まだ話は出来たのだろうけれど、生憎と向かう先は別の方向で、そこで話は打ち切りになった。
それきり、話をしていない。
学校のピアノに通うたびに言葉は交わすけれど、時間の合わないことが多く、ゆっくりと曲を聴くことも出来ない。
普段からあまりJ-popや歌謡曲を聴く習慣がないアスランは、久しくCDショップに入り、クラシックCDを購入した。
彼女が弾いていた『黒鍵のエチュード』が収録されているものを購入、早速家で聞いてみたが、あのとき聞いたきらきらとした何かは胸に寄ってこなかった。
イヤホンをつけて、ボリュームを上げて聞いてみると、録音状態が芳しくないのか、ピアノとは違うだろう音も聞こえてきて、一分も満たずに再生を停止した。
ただ、キンキンと響く音が耳に鬱陶しくて、アスランは耳をぐしゃぐしゃとかき回した。
これは、つい昨日の出来事である。
今日こそゆっくり聞けたらいいのに、と思いながら階段を上る。
一段一段踏みしめるよう音を立てないように歩いたが、耳を澄ましてもピアノの音はこれっぽっちも聞こえなかった。
しかし、そこで引き返すのは何となく悔しいような気がして、無人のピアノだけでも見よう、と決心して静かに歩いた。
講義に使われていない校舎で、しかも他の校舎と比べ離れて立っているここに立ち入る生徒はほとんど見かけない。
しかし、階段の隅を見ても埃が溜まっていないから、まだ手入れが入っているのだろう。
階段を上りきり、廊下をしばらく歩き、教室の前に立つ。
扉についているガラスからピアノの様子を伺うが、やはりこれから弾きそうな雰囲気もなく、蓋をされて静かにそこに佇んでいた。
やっぱり空振りか。
ピアノの音は聞こえなかったが、わずかな期待を抱いていただけに、やはりがっかりする。
諦めて引き返そうとして、アスランは目を瞬かせた。
彼女はそこに居たのだ。
椅子に座って、鍵盤の蓋の上に顔を乗せて、反対側を向いて寝ているらしい。
チョコレート色の髪の毛が、さらさらと頭の上流れている。
その上には、数冊の楽譜らしい本が置かれている。
これから弾くところだったのか、それとも弾き終わった後なのか。
どちらなのか、と考えてから、アスランは自分がどうすべきなのかと考えた。
このまま去った方がいいのだろうか。
しかし、まだ弾いていないのだったら、今日こそ聞いてみたいと思う。
この後に講義もないし、予定もない。
だが、彼女が寝ているところを起こすのは、何となく忍びないような気持ちになる。
やはり、今日は我慢して引き返すほうがいいのだろう。
脱ぎ捨てられたスプリングコートを彼女の肩にかけて、今日は帰ろう、と意を決してアスランは教室の中に足を踏み入れた。
四月中旬になり、日差しはようやく春らしいものを感じさせるようになったが、この校舎は陽のあたりが悪いらしく、少し肌寒い。
これも、校舎が使われなくなった原因だろうか。
起こさないように、足音を消して近づくと、楽譜が目に入った。
そこには、小さく彼女の名前が書かれている。
アスランはそれを、まじまじと見つめた。
Kira.Y、と丁寧な字で隅の方に小さく書かれている。字を見るからに、とてもまじめな性質なのだろうと、想像出来る。
今日はじめて名前を知った。
彼女の名前も知らないまま、悪意のままに近づいて、ピアノに惹かれていたのかと思うと、何とも言えず不思議に、そして遣り切れない気持ちにもなった。
彼女のコートをとり、椅子に近づく。
そっとかけようと、手を伸ばすと、やさしいね、と声が降ってきた。
ゆっくりと体を起こして、ありがとう、と言ってコートをアスランの手から受け取る。
「寝ているのかと思った」
「ううん、少し考え事をしてただけ」
そういう彼女の目は、少ししょぼしょぼしているような気がする。
やはり寝ていたのかもしれない、と思った。
「最近、毎日通ってた?」
「え、ああ、まあ」
「ごめんね、しばらく学校に来てなかったんだ。もしかしたら、ピアノを聴きにきてるかもって、アスランのこと考えてたよ」
突拍子もなく、自分の名前を聞いて、アスランは驚いた。
「俺の名前……」
「そんな、君、有名じゃない。アスラン・ザラ。こんな僕でも知ってるよ、それくらい。あ、僕、アスランって呼んでいいのかな」
「勿論。あの、俺は今日はじめて、あなたの名前を知って……」
その楽譜から、と指を刺すと、彼女は納得したように頷いた。
「僕の名前は、キラ・ヤマト。何でも好きに呼んでくれて構わないよ。でも、不思議だね。何度も顔を合わしてるのに、名前をちゃんと知らなかったなんて」
彼女はおかしそうに笑っているが、アスランは無邪気に笑うことが出来なかった。
不思議なめぐり合わせなのかもしれないが、しかし意図的な部分があることを自身をもって分かっているだけに、知らないふりは出来なかったのだ。
「今日も聞きにきたんだよね」
「もしこれから弾く予定なら、ぜひ聞きたいと思ってる」
「じゃ、期待に応えて。何を弾こうかな。聴きたい曲はある?」
そう言いながら、鍵盤の蓋を開ける。そばで突っ立っているのもどうかと思い、かばんを近くにあった机の上におき、もうひとつの大きな蓋をアスランは開けた。
中に、細長い棒が納まっており、それを蓋の内側にあるくぼみに納める。
予想していたよりも、蓋はずいぶんと重い。どうやら、すべて木から作られているらしかった。
キラは、楽譜を楽譜立てにおき、ぱらぱらとページをめくっている。
その動作を行う指が細くてすらっと伸びているのを見て、きれいだなとアスランは思った。
「このピアノってねえ、実はかなり高価なものらしいよ」
「ピアノって、どれも高価だと思うけど」
「確かに安くはないよね。これ見て、きれいに唐草模様が入ってるでしょう。こんなのは、普通の譜面台にはありえない。うわさでは、世の中に二台しかないピアノのうちの一台だって」
彼女の指さすそれを見て、確かにすごく綺麗だと思った。
それがどれほどの価値を表しているのかは分からないが、確かにシックな黒に唐草模様というのは、中々に落ち着いた雰囲気を醸し出している。
というわりには、誰かに使われることもなく、こんな校舎の奥に佇んでいるのは、勿体無い。
「でも、音のことを言うと、少し物足りないかな、って思う。だから、ここに置かれているんだと思うけど。でも、ちゃんと、この学校の誰かが手入れをしているみたい。それが、僕は何となく嬉しい。だから、ここでも弾きたいと思うんだ。しかも、それを聞いてくれるひとまで居るんだから、幸せなんだよね」
とても当たり前のように語りながら、その顔はとてもやわらかいものを含んでいる。
キラがピアノに対してどれほど親しみを持っているのかが、手にとるように分かる気がした。
彼女のピアノに対する敬意を見ているから、なお更強く感じさせられる。
それから、彼女はいつものように弾き始めた。
話しているときにはやわらかい、やさしい表情も、弾いているときには、きりっと引き締まった顔つきで、まるで彼女自身が弾く音を頭の中で聞いているようだ。
いつもは窓辺に凭れかかるようにして立って聞くのだが、今日は椅子を引き寄せて彼女の姿とその音に耳を済ませた。
どこからあんなにも激しいボリュームのある音を弾くのだろう、といつも思うが疑問は疑問のままだ。
十本のそれぞれの指は迷うことなく行くべき場所に落ち、そして一寸も止まることなく次へ、次へと動き続ける。
その様子を見ていても飽きを感じさせないほどにすばらしいものだと思った。
音は勿論のこと、その指の動きも十二分に芸術だろうと思えるくらい。
音は、やはりCDで聴いたものと、正反対と言っていいくらいに違った。
途中、彼女は『黒鍵のエチュード』を弾いたのだが、そのときにはとくに耳を済ませた。
スピーカーを通して聴いた音は、輝きもうつくしさも、すべてキンキンとした耳障りの音として聞こえたが、彼女の弾くピアノの音は違った。
手にとることが出来ないような一瞬の輝きは、まるで花火のようにはかなくも美しい。
形に出来ないゆえのうつしさなのかもしれない。
生き生きとしたそれは、捕まえられないのがくやしいとさえ思った。
十分に弾ききったのが、鍵盤の上から指を離し、力を抜いたように肩からぷらんと指先を落とした。
それを見て、アスランはいつものように拍手を送る。
想いのたけを拍手にこめて、長いそれを送った。
「おそまつさまでした」
「お粗末だなんて、とてもいい思いをさせてるから」
「でも、凄く照れる。普段、他人に聞いてもらうこともないし」
達成しきった、というような晴れやかな顔に頬を赤く染めたキラは、とてもかわいかった。
恋をするというのはこういうことなのかな、と思って、しかしアスランは現実を省みて、脳天を殴られたような気持ちになった。
今の自分は、友人らとの約束があって、それを口実にキラに近づいたのだ。
それでたまたま彼女のピアノがすきになって、何度も彼女のもとに通っているとしても、その土台は変わることはない。
その事実を変えることは出来ない。口説かせるなんて賭けにのるんじゃなかった。
賭けにのったことで、こうして彼女に出会うきっかけが出来たというのは感謝しなくてはならないのかもしれないが、それに対する代償は大きすぎた。
ことあるごとに罪悪感を感じざるをえず、それがとても苦しい。
どうしたらいいのか、まったく分からなくてアスランは胸の中で深く息を吐いた。
恋というのは、突然やってくるらしい。
それを知ったアスランにとって、中々厄介ないきものだった。
過去一緒にいた女の子は複数いたが、自分からアプローチをかけたことは一度もない。
突然腕を組んで歩くようになり、ベッドへ誘う。
それから、ずっと隣を歩くのだ。
それに対して、なんら感情は浮かばなかった。
何とも思わなかったから、当たり前である。
勝手にそばを歩いていたのに、突然怒り出して、そして勝手に離れていく、というのが、常だった。
それをアスランは恋愛をしていたと名づけたことは一度もないのだが、傍目で見ていれば、そう呼ばれるらしい。
散々回りには囃されたこともあったが、それほど気にも留めたことがなかった。
こういう女性がいい、と認識したことはなかったし、確かめたこともなかった。
ただひとつを挙げるなら、露出が激しいのはあまりすきではない。
これだけは苦手であるが、それ以外に求めたいと思ったこともなかった。
それが、突然恋に落ちた。彼女の弾くピアノが好きであるということが大きな一因なのかもしれないが、
決定打は、彼女の表情だった。真剣な表情の後に見せた、やさしい笑顔。すぐにお礼の言葉が口をつくこと。
誰かに恋焦がれる、というのはとても大変なことだと、アスランははじめて知った。
何でもない一挙一同にこころがふわふわと浮き立つのだ。
ピアノに向かう真剣なまなざし、話しているときのやさしい瞳。
笑顔を見れば胸が踊りだした。
前触れもなく降ってきたこの事態は、ひとつの悩みを除けば、新鮮なものであった。
その日もいつものように、彼女のピアノを聞いて、そして一緒に校舎を出た。
空は真っ暗で、時計を見ると、八時時前を指していた。
「ねえ、一緒にごはんを食べない?お腹がすいちゃった」
軽い足取りで歩く彼女の隣を歩くと、シャンプーのにおいがした。
清潔なにおいだと思う。
「じゃあ、パスタはどうだろう。前においしさで評判のところを見つけたから」
「久しぶりに聞いた、パスタって単語。楽しみ」
十分ほど歩いて店に着くと、店の中は込んでいた。
しばらく待っていると、席が空き早速注文をする。
二人とも同じパスタを選び、そしてそんな偶然に笑った。
「アスランがこんなに気さくなひとだとは思わなかった。顔立ちは整ってるし、レポートとかも秀逸だっていつも聞くし、噂ではいろんなひととお付き合いをしているみたいだし」
「別に、うーん……俺は俺だと思っているから、何とも返事が出来ないけど」
「それに、こんなにピアノに興味があるひとだとも思わなかった」
「それは、キラのピアノがすきだから」
「またまた、お世辞を」
ピアノについて話すと、彼女の表情はいつもよりなおやさしい笑顔になる。
話の合間に運ばれてきたパスタを、ふたりは話をしながらフォークに絡めた。
「他になにかすきなことは無いの」
「特に、無いかな……。今はキラの弾くピアノを聴くくらいで」
「でもどうして、そんなに僕の弾くピアノがいいのかな。コンクールとかでも、いつも入賞出来ないんだ、入選ばっかり。その一歩がいつも分からなかった。審査員の先生と話すきっかけがあったときにも言われるんだ、入賞と入選の間に賞があるなら、それをあげたいくらいですって。入賞に何が足りなかったのか、僕には分からない」
聞きながら、アスランは遠い過去の記憶に想いを馳せた。
「何か賞に入るためには基準がある?」
「そりゃあ、作曲者がいてその曲を弾くんだから、それぞれの基準があるんだろうね。でも、最後までその入賞の基準は分からなかった。だから、僕にはピアノと一生遂げることは出来なかった」
ピアノについてアスランは素人だったから、キラの弾くそれらについて意見をするのは難しかった。
頷くことしか出来ない自分を歯がゆく思いながら、キラの話に耳を傾ける。
「でも、僕にとって、ピアノはアイデンティティーみたいなものだし、大切。でもアイデンティティーじゃなくなっても、もう一度アイデンティティーになれるように、弾きたいと思う。こうやって、僕の弾くピアノをすきだって言ってくれるひともいるし」
こうやって、キラと話しをするようになってから、もうずいぶんと月日が経ったようにも感じるが、実際には一ヶ月ちょっとしか経っていない。
短い月日だが、分かったことはいろいろある。
そのひとつに、おしゃべりがすきなことだ。
ピアノについてなら、雄弁に語ってくれるし、ピアノでないことにもいろいろと考えを話してくれる。
適当なことは言わず、いつも真剣だ。
だから、不思議に思う。
どうして、彼女は学校で、いつもひとりなのだろう。
誰かと一緒に歩いている姿を見かけたことがないのだ。
こんなにお喋りで、表情も豊かで、顔立ちも十分かわいい部類に入るだろう。
彼氏だって居てもおかしくない。
「そういや、どうしてピアノを弾くようになったんだ?」
「きっかけは母親が、弾いてほしいって思ったらしくって、気がついたらピアノを習ってたって感じ。でも、ちゃんと自覚してからは、ある絵を見てからピアノに対して真剣に考えるようになった」
「どんな絵?」
「『楽園』ってタイトルの絵。中学校に上がってすぐ、イベントか何かで見つけたんだけど、賞に入ってた作品だったかな。でも、賞に入ってるとは入ってないとか、そうじゃなくて、凄く胸にじんと来たんだ。オレンジと緑と青が基調の優しい色使いで、優しい気持ちになる。で、それを描いたひとの年齢が自分と同じで、凄く吃驚した。自分と同い年のひとが、すごい絵をかいて賞に入ってるんだって思うと、自分も頑張ってるピアノをもっと磨きたいと思った。もっと表現が出来るように」
「へえ。じゃあ、それが今のキラの基盤みたいなのか」
「そうかも」
話しながらも指と口は動き、皿の上からパスタは無くなった。
店の中は已然込んでいる。
待っている客もいるらしい。
あまり長居はしないほうがいいだろう。
キラに促して店を出ると、まだ時計は九時を示していた。
「どうする、キラ。もう家に帰る?それとも、バーにでも行く?」
「アスランは帰らなくても大丈夫?」
「ああ、用事も何もないし、帰ってもひとりだから大丈夫」
「じゃあ、どっかに行きたいな。今日は、なんかアスランとずっと話していたい気持ち」
と彼女は言ってのけたが、実際は話すことは出来なくなった。
キラはどうやらお酒にとことん弱かったらしく、対して度数の高くもない酒をグラス一杯空けたところで、眠りの世界に行ってしまったのだった。
肩を揺らして、彼女の名前を何度呼んでも一向に意識が戻らない。
タクシーを呼んで、彼女の家に送り届ける予定だったが、自宅が分からないのではどこへも送ることは出来ず、アスランは自身の住むマンションの名前を告げた。
生家は今も手元にアスラン名義として残っているが、生活を送っているのは別のマンションだ。
広い空間にひとり、濃い思い出と記憶が苛み、一戸建ての家を出ることを決心した。
家を売ることも考えはしたが、思い出の詰まった実家を売り払う気にはなれなかった。
誰も住まないと余計に痛みやすくなるから賃貸にでも出した方がいい、と不動産の人間は薦めたが、他人に敷居を跨がせるのはいやで、結局無人のまま管理をしている。
エントランスの前にタクシーが着いたとこで、意識のないキラを抱き上げ、エレベーターに乗り込む。
そして、自分の部屋の鍵を取り出し、開けて、寝室に彼女を寝かせた。
スプリングコートは脱がせたほうがいいだろう。
服の皺などを考えたら、脱いだほうがいいのだろうけれど、まさか自分がするわけにもいかず、結局はコートだけを脱がせてそのまま布団をかける。
あどけない表情で眠るキラは、やはりとてもかわいらしかった。
長い、カールされたまつげが落とす影さえも美しく、少し膨れたその唇に口付けたい衝動を何とか抑える。
白い、磁器のような肌は、しっとりしているだろう、指で触れることのかなわない現実に、アスランは唇をかみ締める。
整った鼻のかたちは、まるで芸術品といってもいい。
自分のものに出来るなら、どれほど幸せだろう。
今の自分にその資格はまったく無いと言っていいに違いない。
その現実が、とても悔しい。
自分のものには出来ないかわりに、何か形に残せたらいいのに、と思う。
さらさらと流れるよう耳と首あたりに流れる髪の毛をひとすくい、アスランは手にした。
くせのないそれは、やわらかい。
永遠にここに彼女が眠り続けていたらいいのに、そうすればずっと彼女の寝顔を見ていられるのに、と無茶なことを考える自分に、アスランは自嘲的な笑みを浮かべた。
見続けると余計に名残おしくなってしまうと分かっていたから、意を決して彼女から視線をはずし、寝室を後にした。
簡単にシャワーを浴び、乾燥機からジャージとティシャツを取り出して、身に着ける。
今日はベッドに客人が寝ているから、リビングのソファベッドで寝ようと、決め半ば物置のようになっている部屋のクロゼットから毛布と布団を取り出し、ごろんと横になる。
しかし、いつもベッドにつくよりもかなり早い時間のため、目は冴えて眠りにつけそうになかった。
しかし、起きていてもきっと、ベッドで寝ている彼女の姿が気になって何も手につかないだろうと分かっていたから、布団の中に包まったのだ。
目を閉じてどれだけ心を無心にしようとしても、キラのことが頭の中をぐるぐると回っている。
さすがに下半身に血が回るほど節操なしではないらしいが、それでも十二分にそれと似た願望のような要求のような何かが頭の中から離れない。
記憶に刻まれた彼女の表情が、頭の中に何枚も何十枚もあって、それがフィルムのように頭の中を回っている。
この感覚は、ずっと体の奥底に眠っていたそれと酷似している。
きっとこの先、指先や頭の中に戻ってくることはないと思っていた。
あれほど無理だと思っていたことが、こうして体中から湧き上がってくる、もう頭の中ではビジョンがびしりと頭の中に並んでいて、発散することを望んでいる。
アスランは布団を勢いよく剥ぎ、冷たい不ルーリングの上に素足をおろした。
物置のようになっている、北向きの部屋のクロゼットの中に体を突っ込み、ひとつの段ボール箱を取り出した。
これを閉めたときの記憶は今でもよく覚えている。
二度と開けることはないだろうと思いながらも新居に持っていく決心をしたあの夜のこと。
開けないと決心しつつマンションに持ってきたこと自体が、今日のことを予測していたようで、何となく情けない気持ちにもなった。
あの決意はどこへ消えたのだろう。
透けた緑色のガムテープをゆっくりとはがし、中からまっさらのスケッチブックと、建築用だとかの当時お気に入りだった2Bの鉛筆を数本持って、リビングへ向かう。
ソファではなく、ダイニングテーブルの椅子に腰かけた。
一息もつかずに、スケッチブックをめくり鉛筆を持って、脳裏から離れないそれを描き始めた。
やはり最初に浮かんだのは、キラがピアノを弾ききった後に見せる、達成した顔が微笑んだときの表情だった。
すばやく仕上げて、次に浮かんだビジョンを手で形にする。
浮かんでは形にし、そしてまた彼女の顔が浮かぶ。
それは途切れることはなく、そして描き続けても手は休まらなかった。
五、六枚ページをめくったところで、アスランは気がついた。
描きたいと思うのは彼女だけで、それ以外の何かを描きたいとは思わない。
こんなにも渇望した気持ちになったのは、今日がはじめてであるから確証はないが、それでも確信に近い何かがアスランに感じられた。