プリズム 3話






 気が付けば夜が明けていた。
 動かし続けた手を止めて、鉛筆をテーブルの上に転がす。
 特有の、からからから、と音がして、それを聞くのも久しいなあと思った。
 同じ形のまま動かし続けた、凝り固まった手を解しながら、アスランは息を吐く。
 とりあえず、頭の中にあった霧のようなものは晴れた。
 このままなら寝れるだろう。
 一睡もしていない体はくたくたであったが、胸の中はすっきりとしている。
 しかし、このまま寝てしまえばきっと講義に遅刻するだろうと容易に想像がつくから、横たわるのは諦めて、コーヒーメーカーをセットするために立ち上がった。
 若いころ――といっても今でも十二分に若いのだが――は、徹夜なんて、と何とも思わなかったが、久しぶりのそれはひどく身体が重たい。
 よたつきそうな身体を足でしかと支え、一足一足を踏みしめるように歩く。
 調子はとても良いと言いがたいものだが、自分のまわりについていた奇妙な物体が取れたような、そんなすっきりとした感覚はとても久しいもので、悪くないと思う。
 そして同時に、確信すべき事実がアスランの胸の中に生まれた。
 少しずつくらい部屋の中に入り込む日差しが眩い。アスランは目を眇めながら、その光を見つめた。
 胸に生まれたそれは決して幸福な感情をもたらすだけではなく、同時に悩みもつれて来る。
 しかし、いつか清算しなくてはならないことだとアスランは知っていたから、それが苦痛だとは思わなかった。
 湯気の立つ黒い液体をなみなみとカップに注ぎ、携帯電話を手にとって、友人に素早くメールを打つ。
 白いマグを啜りながら、ベッドで眠る女の子のことを想った。
 彼女のことを考えると、胸の中にある緑の田が風にたなびく絨毯のように、やさしくなる。
 そして、砂が勢いよく水を吸い込むように、かさかさに乾いたそれがしっとりとするくらいに、身体中を満たすのだ。
 それは、いまだかつて感じたことのない、穏やかなものだった。
 そしてさらに驚くことに、彼女の顔を、いくつもの表情を絵に描きたいと思う。
 あれだけ描けないと思っていた絵が、描ける。
 何の気負いもなく、ただ描きたいという湧き上がる純白のような気持ちが、手を動かす。
 そして、その感覚はかつて味わったことのなかったものだった。
 両親が生きていた頃に描いていた感じとは異なるそれだったが、戸惑いも不安も無かった。
 描くことが出来そうなのは今のところ彼女だけで、そのほかには何を描く気にはなれないけれども、絵を描けるという事実だけで、まるで昨日いた世界とは別の世界のようで。
 そこへ導いたのは限りなく、彼女のおかげだといって違いはないだろう。
 だから、余計に強く、彼女のそばに居たいと思った。
 しかし、それは、ひとを恋しいという理由に値するのだろうか。
 真っ黒というには、僅かに焦げ茶色も混じる液体をじっと見つめながら考えたけれど、アスランには分からなかった。
 彼女への想いの底にあるのは、絵が描けるとか描けないとかではなく、彼女のピアノを演奏する姿と、表情なのだという確信だけは、ある。
 あの情景をずっと見続けていたい。出来るなら、自分だけが独り占めして、他の誰も見せたくない。
 考えれば考えるほど、言い訳がましいものが次々と生まれて、アスランは少しいやな気持ちになった。
 それは、友人たちとした賭けのことが頭を掠めるせいだと分かっているから、余計にバツが悪くて、苦い気持ちになる。
 ばかげた賭けなんかにのるんじゃなかったという後悔の気持ちと、しかしこの賭けが無ければ彼女には出会っていなかっただろう、その皮肉な運命さにアスランは、笑うしかなかった。
 時計を見ると、一限目の授業に出るならばそろそろ起きないといけない時間に迫っていた。
 アスランは立ち上がって、寝室の方へ向かう。
 静かに扉を開けると、彼女は未だ寝ているようだった。
 身体を横に向けて、まるで母親のお腹の中にいる胎児のように丸まっているのが、布団のふくらみで察せられた。
 あどけない表情で寝ている彼女は、無表情であるがゆえなのか、とてもかわいく見える。
 俺の目もとうとう恋に狂ってきたのかもしれない、とアスランは甘いため息をつきそうになった。
 静かな寝息を立てているキラを起こすのは、あの音楽室の時と同じように、忍びない気持ちになる。
 このまま寝かせてあげれば、ここに一生寝ていてくればいいのに、なんて昨日と同じ考えを廻らせながら、アスランはしゃがみ込んだ。
 キラの顔のある位置と同じ視線になって、静かに彼女にささやく。
「キラ、起きて。朝だ。キラ、授業に遅刻するかもしれない。キラ、起きて」
 起きそうにない彼女に、声をかけながら、背中を静かにやさしくたたく。
 いつかの本に、寝ている人を起こすには、大きな声や衝撃は良くないのだと書いてあったことにならって、アスランは繰り返し声をかけ続ける。
 同じ動作を何度か繰りかえし、ようやく彼女の目が開いた。
「おはよう。目は覚めた?」
 静かにまぶたが開かれるその動作は、スローモーションを見るかのようにゆっくりとしている。
 表れた、みずみずしい果実のようなピンクとバイオレッドの中間色をした瞳は、どうして目の前にアスランが居るのだろう、不思議に思っているようだった。
「えっと……」
「昨日のことは、覚えてる?ちょっとの酒で酔った君を、ここまで運んだんだ」
「……あっ……あ、ご、ごめんなさい、迷惑かけちゃって、その、本当にすみません」
 そして、言いながら彼女は布団をそっと捲る。
「コートだけは、皺になるといけないと思って、脱がせたけれど、それ以外は誓って何も触ってない。ちなみに、俺はソファで寝たから」
「う、うん。本当に……」
「いいよ、別に気にしてないし。それよりも。頭痛とかは?大丈夫?良かったら、シャワー浴びる?」
 もそもそと動いて、ベッドから起き上がろうとする彼女に尋ねると、顔を横にぶんぶんと振った。
「全然、身体の調子は大丈夫。お風呂は、一旦家に帰ってから浴びるよ、気を遣わせて本当にごめんなさい」
「本当に気にしてないから、謝らないで。俺は大丈夫。シャワー、うちで浴びていったほうがいいかも。ここからだったら1限目にぎりぎり位だし。って、俺ももっと気を使えばよかった。ごめん、もっと早く起こせばよかった」
 悔いながら、アスランはマンションの最寄の駅と、学校から比較的かなり近い距離といえるだろう分数を述べる。
 それに対し、キラは、そんなに僕って気持ちよく寝てたんだ、とうな垂れた。
「……じゃあ、お言葉に甘えて借りていいかな。本当にごめんなさい」
 勿論、と返事ひとつで応えると、彼女はありがとう、と何度も繰り返した。
 それから、何とか支度を整え、二人は共にマンションを出、駅にたどり着いた。
 来た電車に飛び乗り、ふたりは大きな息をはく。
「多分この電車で、ぎりぎりぴったりくらい」
「うん……本当に、色々とごめん」
 ゆっくりと電車が動き出し、決して空いているとはいえない車内の中でも比較的人の少ない場所に二人は移動した。
 景色が、窓からゆっくりと流れていく。
「本当に、昨日は色々面倒をかけちゃって、ごめんなさい」
「いや、俺の方こそ、お酒に対してもっと気を使えばよかった」
「ううん、そもそもお酒にあんなに滅茶苦茶弱い訳じゃないよ……昨日のあれでは説得力ないけど。いつもならチューハイの二、三缶くらいは飲めるんだけど……」
「へえ。まあ飲めない訳じゃないよね、確かに」
 ちらりと、となりに立つ彼女を見ると、少し頬が赤くなっているように見えた。
 その横顔だって、かわいい。
「あの、迷惑かけたお礼に、今度店に行ったときに、僕が奢るよ。おいしい店、探すね。アスランは何が食べたい?」
 視線に気づいたのか、彼女の瞳がこちらを向く。振り向く瞬間の、その髪の動きさえ、彼女を素敵に見せているようだ。
 きっと、キラを何時間何日と眺めているだけでも、楽しいだろうな、とアスランは全く違うことを考えた。

 午前にある二本の授業を受けてから、アスランはカフェへと向かう。
 二本目の授業の終わりがいつもより少し長引いたために、アスランは少し駆けた。
 約束の時間に遅れるのは、好きではない。
 足早にそこへ着くと、二人はすでに席に座って待っていた。
「報告かあ」
「やっぱり色男さんは違うねえ」
 片方は上がり調子に、そしてもう一人は冷やかしたように言って、コーヒーを啜っている。
 アスランはあえて何も返答せずに、しずかに椅子を引いた。
「突然だが、この賭けを降りたい」
 こういうときには、変に遠まわしに言うより、率直に言ったほうがいいということは、彼らと数年過ごして分かったうちのひとつだ。
 いらないことを言えば、苛々したような態度をとられてしまうとアスランは知っている。
 それは、話している立場ながら気分の良いものではない。
「どうした、アスラン。お前らしくない……ねえ、ミゲル。逃げるなんて」
 橙色の髪の毛を太陽に反射させて、にたにたとラスティは笑う。
「逃げるのか、男が廃るぜ。あんなによりとりみどりの女の子に唾を付けやがったくせに」
「それは誤解だ。俺はそういうことをした記憶もないし、そもそもいつも相手から迫ってくるだけだ」
「でも、結果的には唾つけてんじゃん。で、今回はなんで、駄目なの?俺は納得いかない」
 さも意地悪そうに言うラスティの隣で、何も言わずに黙って聞いていたミゲルが、お前さあ、と呟いた。
「アスランって、もしかして、その子に惚れた」
 ぼそっと、しかし核心を突くその言葉に、心中でうっ、と唸りそうになる。
 彼の、強い瞳が、アスランのそれをじっと見つめるから、逃げることも出来ず、しかし結局その視線からふいと目を逸らした。
 出来るなら、こういうことは露見させたくなかった。
 絶対に突っ込まれるし、囃したてられる。そういうのが、アスランは極めて苦手だった。
「ビンゴ、だな」
「へえ、アスランが惚れた。うそだろ、おい。ええー……っていうか、ミゲル。何で分かったんだ」
 平静に呟くミゲルとは対象的に、マジで、うわ、ヤベエ、信じらんねえ、などと、思いつく限りの感嘆の言葉を出して、ラスティはアスランをまじまじと見つめた。
「だって、それくらいしか、考えつかねえよ。このザラ君がさ、俺たちに屈服するなんて。お前は考え付くか?」
「否、思いつかなかったし……。っていうか、お前が、あのお高く止まっていたアスランが、女の子を好きになるなんて、その子やばいね」
 うはー、と訳の分からないため息を吐いて、ミゲルは信じられねえ、と再び呟いた。
「こういう風に止めたいって申し出てくるんだから、きっと真面目なんだねえ。アスラン」
 意地悪そうに言うラスティに、アスランは返す言葉が見つからずに、視線をふたりから逸らしたままだ。
 何となく気まずいような気持ちで、笑い声のするひとの居る方を見るとも無しに見ている。
「っていうか、真面目っていうか、真剣かも。じゃないと、負けた上に更に逃げみたいなこと、アスランが選ぶわけないじゃん」
「なるほどな。……てか、その女の子、すげえなあ。あの選り取りみどりをしていたアスランが必死に恋、ねえ……何か本当、信じらんねえよ」
「俺も、だな。やっぱ、アスランも俺らと同じなんだなって感じになるよ」
「同じ……って……」
 視線を背けながらも彼らの会話を聞いていなかった訳ではなかったから、不可解な言葉にアスランは鸚鵡返しした。
「そりゃ、アスラン。俺らは、ほんの少し、お前のことを人間と思っていなかったかもしれない。正直に言えば」
 ミゲルが言うことばに、隣に座るラスティも、目の前にあるカフェオレをごくごく飲みながら、首を振る。
「きっとお前も俺たちと一線を画していたと思うけど、俺らも、ちょっと、お前のことを同じ人間だとは思ってなかった。成績だって、何食わぬ顔で一番だろ、しかも、それが当たり前みたく振舞うし。考え方も違うって感じることが結構あった。何か微妙に同じフィールドに居るように感じなかったから……まあこれが言い訳になるとは思わないけど、普段では絶対見せない、アスランから口説きにかかる姿でも見せてもらおうって魂胆だったんだけど」
 真面目な顔を突然、にやりとさせて金髪の彼は続けた。
「面白いもの見れた。ってか、アスランが俺らと同じなんだって分かっただけでも収穫だ。もういいわ、賭けは」
 そういって、オレンジ色の髪の彼と顔を合わせて、屈託ない顔で笑った。
 それをアスランは、呆然とした気持ちで見つめた。
 何かぐちぐちと、皮肉ったように何か言われるのではと、そんな予想ばかりしていたから、それを裏切る今の状況は、アスランには想定外だった。
 こんな簡単に話しがついてしまうとは、思ってもみなかった。
「だけど、本当、今回の賭けは案外良かったかも。なんたって今アスランは、過去に無いほどの、恋してるんです、ってやつだろ」
「なあ、アスラン」
 それから、ふたりは揃って同じことを口にする。
「ちゃんと、結果報告、してくれよな」
 思わず、期していた状況とは全く違う方向にいってくれたことに、アスランは感謝しながらも、ふたりの言葉にはいささか納得できないものがある。
 だが、それさえももう、どうでもいい様な気持ちになった。
「俺、そんなにふつうじゃ無かったのか」
 ぽつりと呟くと、ふたりは再びげらげら笑い出した。
 失礼なひとたちだ、と思いながらも、キラに出会うきっかけをくれたふたりに、ありがたく思った。

 選択している講義を全て出席し、校舎を出る頃には太陽は西へ傾いていた。
 いつもの足取りで、ピアノのある校舎に向かう。
 入り口前まで来ると、漏れたピアノの音が少し聞こえてくる。
 人気の無い、ぽつんと光る教室に、彼女がいるに違いない。
 姿は見えないが、聞こえるその音で、判断できた。
 その姿を自分の目で、そして直接耳で聞きたいと、自然な気持ちが生まれたが、アスランはその場所から足を進めることは出来なかった。
 彼女を想う気持ち。それに反する、彼女と出会うきっかけになった後ろめたい出来事。
 一応の結末を見せたところで、それは自己満足であって、現実は現実でしかなく、それを変えることは出来ない。
 褒められた出会いでは無いが、今の自分の中にある彼女への気持ちにうそはない。
 これだけは確信をもって、そして何のためらいもなく、口にすることが出来るとアスランは思った。
 それを何よりも雄弁に語っているのは、彼女だけを絵にすることが出来る、ということだろう。
 しかし、それが本当の意味で自分へのプラスになっているのか、アスランには分からなかった。
 キラ自身が、絵を描くことへの何かを与えてくれた。
 忘れていた何かを少し取り戻したような感覚で、それは嬉しいことだけれど、それを自分の背中を押す材料にしてもいいのか、分からない。
 今、キラに会えば、身体の中にたぎる気持ちを黙らせておくことは出来ないだろう。
 だからこそ、今は会えない。自分では分からない、その何かが分からないまま、ぐらぐらとした気持ちで会うことは出来ない。
 見上げていた灯りのついた教室から目をそむけて、アスランは歩き出した。
 それから、ポケットから携帯電話を取り出す。
 昨日登録したばかりの電話番号を呼び出し、アスランは懐かしいひとへ電話をかけた。
 一縷の願いと望みをもって。




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