自らの足で歩くのは、決して嫌いではないが、見慣れない景色の中、目的地を探すのは、簡単ではない。
インターネットで調べ、出力した地図を頼りに、アスランは黙々と歩き続けた。
時間はそろそろ陽の光がなくなり、闇がこの空間を包む時間となる。
こんな時間に他人の自宅を訪れるのは、少し気が引けるが、先方側は問題ないというのだから、気にすることはないのだろう。
決して知らないひとではないので、それだけが安心だ。
それから住宅街を歩いて数分、アスランはインターホンを押す。
迎え出たのは、アスランが話したいと思っていたそのひとだった。
記憶より彼よりも頭に白いものが増えているのを見て、最後に会ったときから時間が経ったことを感じずにはいられない。
高校の卒業式に見たあの、目じりに皺の多いやさしい顔は、そのときよりもずっと皺が深く、さらにやわらかなものになっていた。
「よく来たね」
「お久しぶりです、先生」
「迷わなかったかな。時間も遅いし、分かりにくかったかもしれないと思っていたんだが」
「いいえ、予め地図を用意しておいたので。それより、本当に良かったのですか?こんな時間に……」
「何、今はもうひとりでここに住んでおるから、さびしいくらいだ」
どうぞ、飲みなさい、という勧めで、アスランは用意されていたお茶に飲む。
「あれ、先生はご結婚なさっていたのでは……」
「いや、少し前に旅立ってしまってね……娘もここには住んでいないから、さびしい一人身だ」
眉を少し下げて、さびしそうに笑った。
「あ、すみません……」
気にしないでくれ、と寂しそうな表情のまま彼は笑う。
「大学は楽しいかね」
「ええ、いろいろあるんですけど。それでも充実しています」
「そうか。君から連絡を貰えて、私は嬉しかったよ。久方ぶりに声が聞けたと思ったら、卒業式のときよりも少し軽やかな口調だ。表情もすこし、晴れやかに見える。少し陽に焼けたかな」
あいも変わらず先生は、少しの情報も看過することなく、やさしい瞳の奥で注意深く凝らしているらしい。
昔はそういうところがどうしても受け入れがたく、苦手としていた部分があったが、いつの間にか高校生活の間に薄れていった。
己が荒れていた、絵の描けなかった時期、彼がほかの教師よりもずっと熱心に気を配ってくれたときに、色濃く感じた。
極端な言い方をすれば、あくまで教師と生徒という関係であって、アスランが絵を描けなくなったとしてもそこまで関わらなくてもいいのでは、と思うほどに干渉してきたあの頃が懐かしい。
高校三年間、何の気まぐれか、この先生が三年間担任で、そしていろいろと面倒を見てもらった。
大概のことは、知られてしまっているし、アスラン自身もそれなりに色々知っているし分かっているつもりだ。
その安心感のようなものを、卒業して時間がしばらく時間が経過した今もあることに、感謝したいような気持ちになる。
だから、先生に電話をしたいと思った。
自分では分からない、この不可解な気持ちにも、きっと出口の糸口になるようなものを貰えるかもしれないと思う。
「先生」
「なんだい」
「絵が……、描けるようになりました」
「ほう」
「でも、特定のものしか、描けないんです」
「ふうむ、まず描けるようになったんだね。良かったじゃない」
そうして、お得意のように、先生は目元に皺を沢山作る。
何度も見た、先生の笑顔。
「だから、君の顔が少し晴れやかに見えたのかもしれない。卒業したときに比べたら、すごくいいよ」
どんなときにも、この、にこにことした顔を崩さない先生の顔が、高校の頃のものと被る。
そして、それはまったくズレもなく、ぴったりと合わさった。
「でも、アスランは悩んでいる。特定のものしか描けないから?その特定のものって、口には出来ないんだね」
どうしても、口にするには抵抗があって、濁して伝えたのだが、やはり先生には誤魔化せないらしい。
この笑顔の奥には、鋭い何かが隠されているのを学生の頃に何度か感じたことがあるけれど、今もそれは健在だったようだ。
このこと――恋をしている女の子にしか描けない――を話すこと自体がいやだという訳ではないつもりだ。
が、しかしどうしても疚しいことをしているような気持ちになってしまうのはなぜだろうか。
「あ、別に無理に聞き出したい訳じゃないよ、勿論。言える範囲内でいい。それにしても……君は私にヒントを得にきた」
それから、先生は息を吐いた。
「でも、絵が描けるようになったという進歩だけで、十二分に君の中でひとつの答えが出たような気がするんだが……」
「……?」
もう答えがある、という意味が、アスランには分からず、首を捻る。
「絵が描けなくて君は、美術大学の進学を辞めた。あれほど好きだった絵を、諦めた。だめだと思ったから、辞めたんだろう。そのときには無理だと思っていたことが、今出来ている。それは、君が以前に比べて進歩しているという明らかな証拠だろう」
「ええ、確かにあのときは、本当に無理だと思っていました。どうしても、手が動かなかったし、鉛筆を握って紙に向かうという、絵を描くスタイルみたいなものもいやでした」
アスランの状態などお構いなく、課題は次々に出されていくのに、今までなら迷うこともなく思うままに描いていたそれらを描くことが出来なくなったときの喪失感は、今でもはっきりと覚えている。
すきだった、何もかもが、自分の手のうちから逃げていくように、無くなっていった。
たとえば、さらさらと逃げる砂みたいに。
「それを、今、以前絵を描いていたのとは違う方法で、新たに手に入れたんだろう。それは大きな進歩だ。少なくとも、今の私はそう思うよ。以前の君は……そうだなあ、極端な言い方かもしれないけれど、認められるために描いていたような気がする。そして、何かを守っているようにも見えた」
過去を思い出しているのか、視線は遠く、そして表情が少し歪んで見えるのは、錯覚だろうか。
「君とご両親はとても仲が良かったと思う。アスランはとても楽しそうに絵を描いていた。けど……本当の意味で楽しそうだというふうに、私には見えなかった。具体的にどこが、ということは言えなかったけれど」
「……!」
「アスランのご家族のことは、僕には分からない。けれど、個人面談のときに、お母様が言っておられた。小さなころのあなたの絵を描く姿と、その絵に励まされてここまで来れたのだ、と。ぽつりと漏らされただけで、私にはそれ以上の意味が分からないよ。けれど、きっとそういう、目には見えない何かを、幼かった君は敏感に感じていたのかもしれない。幼い子は、大人よりもずっと敏感なところがあるからね。それで、アスランの絵に対する根底の部分に何かがあるのかもしれない、という私の予想は当たった」
想像もしなかった話に、アスランはただ驚くことしか出来ない。
何かに囚われて絵を描いていた、という記憶は全くないのだから。
「でも……俺、……分かりません」
初めて聞いた話で、そういう片鱗も両親から感じたことも無かった。
「そうだろう、分かっていたらきっと、絵が描けないという状況にはならなかったと思う。しかしまあ、どういう状況下で描いていたとしても、君の絵はすばらしかったよ。やさしい心根が表現された、丁寧な絵ばかりだった。だから余計に、君が絵を描かなくなるというのは惜しいと思った。……話が少し逸れてしまったが、そういう不安定な何かの元で絵を描いていた君は、ご両親が亡くなったことによって、絵が描けなくなってしまった。自分の中の不安定だったものが崩れてしまったから。それから時間が経って、君はどういう方法を得てか、絵を描けるようになった。すばらしいことじゃあないか。自分の中にあった、知らず知らずのうちに植えつけられたトラウマのようなものから解き放たれたんだろう」
そうして、先生は再びアスランの方に向き直った。
あの、やさしい表情をして。
「今の、絵を描きたい、と思う気持ちを大事にしなさい。きっと、以前とは違う、純粋な気持ちなんだと、思っていますよ」
そんな顔をされると、ますます絵を描けるようになった動機を話す気にはなれなかった。
やはり恥ずかしい気持ちが拭えず、アスランは視線を泳がせる。
それを、彼は見抜いているのか否なのか、にこにこしながらこちらを見ていた。
その後大学生活を話し、また高校の話を聞いたところで、アスランは暇を告げることにした。
夜も更け、これ以上世話になっては、迷惑がかかるだろう。
今日は本当にありがとうございました、と丁寧に礼を告げ、自分の靴に足を入れようとしたとき、アスランの視界がある写真を捕らえた。
そこには、胸を焦がすほどにいとしいと思うひとが写っていて、アスランは言葉を発することが出来なかった。
そのアスランの視線に気づいたのか、彼が、それは、と話した。
「妻と、娘との、家族写真だ」
それが最後に撮ったものなんだ、と言うそこには、今とかわらないキラが写っているから、それほど昔のものではないだろう。
自分が見てきた彼女とは何一つ変わらず、その姿の隣には、ここにいる先生も共に佇んでいる。
そして、キラのとなりには、先生よりもさらにやさしそうな雰囲気を纏った女性が、椅子に座っている。
夫人だろう。
こういう偶然に出くわすとは、少しも考えなかった。
「ヤマト先生……」
先生のラストネームと、彼女のそれは同じヤマトで、そして何よりの証拠はこの目の前にある写真で。
「何かあったら、いつでも来なさい。出来る限り君の力になるつもりだから」
「ありがとう、ございます」
信じられないような、信じたくないような事実を知ってしまったアスランは、半ば呆然としたまま、恩師の家を後にした。
ベッドの中に潜り込むと、まるで一日の疲労がベッドにへばりついてしまい、少しの身動きも出来ないくらいに身体が重たい。
肉体的な部分でいえば全く疲れていないが、精神的な部分ではひどいダメージを受けている。
いろいろなことを、一度に知りすぎた。
先生から聞いたことばと、自身が見た写真と、記憶が頭の中を反芻しているが、あまりに疲弊しきった今は、それ以上に何かを考えることは出来そうにない。
深く息を吐き、目を閉じた。
眠れるかもしれないと思ったが、神経が高ぶっているのか、まったく睡魔が訪れそうにない。
たったの少し動かすことさえ億劫な身体では今の時間さえ計れない。
冷たい水を飲みたいなあとぼんやり思ったとき、丁度傍に置いた携帯のバイブレーションが鳴る。
この疲弊しきった身体で、それをチェックする気は全く無かったが、どういう訳か、このメールの発信者がキラのような気がして、アスランは鉛のような腕を持ち上げて、携帯電話のフラップを開いた。
予想通り、彼女からのメールが届いている。
確認すると、この間のお詫びに奢りたいのだが、いつなら空いているか、という内容だった。
いつでも空いているので、キラの都合のいい日でも、と返信を返したところで、なんてゲンキンなんだろう、と笑ってしまった。
疲れた、水も飲めないほど動けない、と思いながら、すきな子からきたメールはちゃっかり確認して、返信まで返して。
恩師である高校時代の先生のたったひとりの娘をすきになってしまったという衝撃とショックはあったけれど、だからキラをすきになるのをやめようとか、そういう考えには至らないし、そもそも考えようとも思わない。
もっと、自分の根幹の部分から、彼女のことを欲しているのだ。
こんな自分になると、高校時代の自分では想像出来なかっただろう。
あの頃は、絵を描くことがすべてだった。
あの頃、という限定的なものでは無く、もっと長いスパンの中で、そういう意識が働いていたのかもしれない。
絵を描くことだけがすべてで、それしか自分には取り柄がないのだと思っていた。
それを、きっと大学に進学してからも、引きずっていたのだろうか。
もしそうだとしたら、その絡み合った鎖のようなものを断ち切ったのは、彼女の存在だと、アスランは思った。
特別な何かの力ではない。
ピアノを弾いて、そしてやさしく笑って、包み込むように自分の傍にいてくれて、ただそれだけでしあわせだと思う。
純粋な、なんの穢れも囚われもない、この気持ちを大切にしたい、そう強く願う。
自分の中に眠る気もちに気づいたアスランは、静かに眠りの底へと落ちていった。
約束の時間の五分前には出来るだけ場所に着いていたいと思うのは、過去に一度失敗して、こっぴどく叱られたことがあるからだ。
それ以来、時間にはかなり気を使うようになった。
今日も、いつものように五分前に着くと、キラもすでにそこに居た。
「あ、アスラン。早いね」
「キラこそ。待った?」
「ううん、早く来るのが当たり前になっているから。うちのお父さん、時間だけはすごく厳しいから、その癖がもう染み付いちゃって」
けろりと笑うキラに、アスランの心臓が、ばくん、と打つ。
過去に失敗した、というのは、高校時代の担任の先生との約束の時間に大幅に遅れてしまったことである。
どうにも落ち着かずに、アスランは深呼吸をした。
「そっか。俺も昔、あるひとに怒られてから、こうなった」
言うと、彼女は少し笑って、歩き出した。
「すぐそこの……あそこ。知ってる、すごくおいしいって有名なんだって」
嬉しそうに話すキラの横顔をアスランは、じっと見つめた。
大きな瞳。アメジストの光を宿したそれが、自分を映してくれている。
すきだ。
胸の中から湧き上がる想いをアスランは、再び深呼吸することで落ち着ける。
胸をざわざわとさせながらご飯を食べるより、隠していたことと、伝えたいことを言って、応えをもらいたかった。
「あの、その前にちょっと時間を貰いたいんだけど……店って予約してある?話がしたいんだ」
「予約制じゃないから、大丈夫。話をするんだったら、どこに行こうか……」
突然の、食事への中断に、不快そうな顔をすることもなく、快諾してくれた彼女の顔をじっと見つめていると、どうしたの、と彼女が笑いながら問いかけた。
あまりにもかわい過ぎて、思わず抱きしめそうになる自分を律し、アスランは話の出来そうな場所を探した。
話終えた後、キラは顔を曇らせるのだろうか。
今とは違う、冷たい表情だったら、自分はやはり傷つくだろうなとぼんやり考えた。
ああ、でも彼女の場合、冷たい表情はしないかもしれない。
でも、硬い表情をするだろう。
想像して胸が痛くなる。
それでも、想いを伝えたい、その気持ちの方が強いから、決して後悔はしていない。
どんな結果でも受け止めて、駄目だったら、その時に考えればいい。
でも、きっと泣くだろうな、と悲観的なことを考えて、自分はとても弱い人間なのだな、と今更のように思う。
しかし、今彼女といることに胸を躍らせているアスランの中では、マイナスの考えはすぐにどこかへ消えてしまった。
今がしあわせで、それがすべてなのだ。
心臓をばくばく鳴らしながら、アスランはキラと歩いた。
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